今回は「思いやり」についてお話したいと思います。
思いやりは、見返りを前提とする利己の心ではなく、返済期限がない利他の心をもって発揮すると、なんだかスカッとしませんか。
思いやりとは
私たちは、ひと言「思いやり」というと、「思いやりがない」とか「思いやりがある人」とか、特にサービス業では「お客様への思いやり」がとても重視されます。
こういった「思いやり」とはいったい何でしょうか。
読んで字の如く、「思いやり」とは「相手に思いをやる」ということで、これは自分が相手を理解しようとする気持ちです。ただし、それは一方的な自分の思いであり、その思いから出た相手に対する行動の結果は予測できません。しょせん自分が勝手に思ってのことですから、どう受け取られるかわからないは当然です。
思いやりで相手は支配できない
ところがよくある間違いなのですが、「私が相手のためになるであろうと思ったのだから、当然に相手もそういう風に受け取って喜ぶべきだ」というように、こうならなければならない、と相手に自分への同調を押し付ける感情が生じてしまい、結果として、思いやりで相手を支配できると勘違いをしている方が、たまにみられます。
自分の行動を「自分は大変なんだ=自己犠牲」と捉え、その自己犠牲に対し見返りを求めるのは当然である、という気持ちが生じます。そこから、他人との間にギクシャクとした感情のねじれともつれが始まることってよくありませんか。
思いやりと利他の心
元来、思いやりというものは利他の心と同じことなのではないでしょうか。
勝手に思って、結果を期待せず、黙ってやったことは、自己犠牲でも何でもなくて、ある意味、人間の自然な感情の発露なのではないでしょうか。その行動の結果は誰も予測できませんし、だからこそ、相手の反応によっては新しい見方なり驚きなり発見が生まれるかもしれない、ひょっとするとそれをきっかけに自分も変わることができるかもしれない。そんなサプライズはあるのかもしれないし、無いのかもしれません。
思いやりはギブアンドテイク?
「思いやり」をギブアンドテイクだと思っている方は、テイク=お返しが無かった時のギャップが怖いので、実際の行動に移すことができていないのではないでしょうか。本来、思いやりはギブアンドギブだと思います。この文章の始めに「思いやりのない人、ある人」という言葉を書きましたが、実は思いやりがあるかないかなんて、他人が勝手にそう決めつけているだけなのではないでしょうか。
思いやりって、文字や言葉にしてしまうとなんだか変質してしまう気がします。
利己の心
極論を言うと、文字や言葉にしたり数字にしたりした「思いやり」は、そこに結果を求める「利己の心」だと思います。
それは「思いやり」ではなくて、「見返り前提の親切」と言った方が良いのかもしれません。(ただ、決してそれがいけないと言っている訳ではありません、悪しからず)
利他の心
「どうなのかな」ってちょっと相手に思いを至り、気が付いたことを何気にサッと取る行動は、結果はどうであれ、何となくスカッとした気持ちになります。
確かに、そんなのは自己満足でしょうが、ただ、みんなみんなが少しずつそんな思いやりを持てれば、その和は大きなものになるでしょうし、それで皆がちょっとずつでも自己満足できているなら、争いも起きにくくなるかもしれません。
人だけではなく万物全てが対象
因みに、「利他の心」の「他」は、他人のことを指すだけではない、と言います。
自分以外の全てのもの、即ち人間だけでなく、自然等の動物、植物も含まれます。
その様々な自分以外のものに対し利他の心を持つことがSDG’sであり、あえてSDG’sなんて言わなければやっていけないほど地球が狭くなってきたんだろうな、とも思います。・・・話は逸れましたが、結果を求めず、黙してサクッと相手を思いやる行動をする人って、古臭いかもしれませんが、ちょっとクールなのではないでしょうか。