八月も終わり
あっという間に八月が終わろうとしています。まだまだ暑いことは暑いけど、たまに吹く風に秋を感じるようになりました。空を見上げれば、あいかわらず入道雲がモクモクですが、朝方や夕暮れ時はウロコ雲が見られ、秋を感じます。八月は、学校がお休みなのでボランティアイベントがいろいろあったり、孫たちの襲来があったりして、ほとんど息つく暇がないくらいでした。おかげでゴルフに一度も行けておりません。ここ最近ではまあ珍しいことです、意外と暑い暑いと言いながらのゴルフも好きだったりしますので。でも、たまには仕方ないですよね。双子の孫たちは7才になりましたが、我が家に来るのを毎回楽しみにしていて、今回は二人だけで8日間泊まっていきました。特に何するわけではないのですが、庭で虫取ったり走り回ったり水掛け合ったり、近所の子供たちと旧知の仲のように遊んだり、田舎暮らしを満喫しました・・・お泊り中何度もボランティアに出掛けざるをえなくて「またでかけるの!」と怒られてばかり。でも、あと何年こんな風に私たちを相手してくれるかわかりません。できる時にできることをやってあげたいな、と思っています。・・・
さて今回は、先日娘の義父が亡くなった際にふと考えた、自分のこれからについて、つらつら考えてみました。

我慢しなくてよくなった
私の父は69才、パートナーの父は68才で他界しました。間もなく、私もその年を超えようとしています。彼らが亡くなった時、この年までは何とか生きよう、なんて思ったけど意外とあっさりクリアしそうです。先日他界された娘の義父は83才でしたから、そこまであと15年です。健康年齢はあと何年、なんて考えると、案外先は短いように感じます。だからといって、今のところ「あれもしなくてはこれもしなくては」と生き急ぐ訳でもなく、一定程度の生活パターンの中で累々と生きている、って感じでしょうか。もう実業には関わっておらず、いわゆる無職です。おかげで、会社や仕事のために我慢しなければいけないことが無くなったのがうれしい点です。とはいえ、これまでは「会社」とか「仕事」を隠れ蓑や言い訳にして、サボったり、遊んだり、諦める理由にしていましたが、それが無くなってみると、案外逃げ道が無くなってしまったようにも感じます。
我慢はなくならない
ところが、好きなだけ時間があるからといって、何でも自分のやりたいようにやれる訳でもありません。行き場というか居場所を作るために外に出れば、何をするにしても他人様と関わるわけで、思い通りにいかないことが多々あります。思い通りにいかないから「じゃ辞めます」といっても、次の行き場が見つかる保証もありません。ですから、同年代の皆さんをみていると、果たしてどこまで深く踏み込んで良いのか迷って、入り口で出たり入ったり足踏みしている方も多く見かけます。えいやと踏み込んでみればみたで、そこには昔からの流儀や仕来りなんかあったりして、それに我慢して従うか、やっぱり辞めようか、正直私も迷うところが多くあります。なんで仕事じゃないのに我慢しなけりゃいけないの、なんで他人のご機嫌を取ったりしなければいけないの・・・とはいえ、居場所がなくなって一人になるのも嫌だからと、我慢している人も多いみたいです。

やりたいことだけをやれるか
本当にやりたいことだけをやる生き方が素晴らしいなんて、実は大きな勘違いなのかもしれません。例えば、芸術家と呼ばれる方たちなど、自分の世界だけに没入し生きている方たちがいます。あれはあれでお気楽なようで、本当はとても苦しいのではないでしょうか。描かなければいけない、描くことが当たり前と思われている人たちって、上手くいっている時はいいけど、一度つまづくとホント苦しそう。何よりも、そういう生き方を選択するのであれば、他人のみならず家庭との訣別すら覚悟する必要があります。定年離婚されたならいざしらず、さあ引退だ、これからパートナーとゆっくりしようなんて思っている方たちにとっては、自分の好きな事だけに没入しよう、なんて虫の良いことは許されないかもしれません。
人間一人では生きてはいけない
人間は弱い生き物で、一人では生きていけません。そのためには、程度の差はあっても社会と関わっていくことは大切です。引退して週五日八時間縛られることがなくなり、自分のために使える時間が増えたといって、社会との関係を断つというのは拙速な気がします。自由な時間が増えたことを、全てが自分のための時間と勘違いしてはいけないと思います。他人との付き合いには妥協や我慢も必要ですが、それでも社会との関係を薄く長く続けることは大事で、自分の時間を他人や社会のために使う時間も必要だと思います。弱い人間たちは、そうやって自分の時間を出し合って、支え合って生きてきたのではないかと思います。ほんの少しでもいいので、社会に自分の時間を提供する気持ちが大事なんじゃないかと思います。
膨大なモノたち
我が家にはパートナーがいて、子供二人は各々家族がいて独立しています。傍目からみれば何の悩みもないようにみえるでしようが、悩みは諸処あります。それでも、私は十分幸せなんだと思います。いずれパートナーの母を見送ったあとは、今度は自分たちが見送られる側になります。どちらが先か、どちらも互いが先だと常に言い募っています。パートナーは子供思いで、終活と称して身の回りのモノの整理に余念がありません。ただ、36年も住んだ戸建一軒家は、もともと二世帯を想定していたため、いくらでもモノを収納する余力があり、そこに飲み込まれ隠れている数々の品は膨大です。

そして、残るのは記憶だけ
結局持ち主がいなくなってしまえば、今は大事にしていてもタダのゴミになります。好きで実用品から人形までいろいろなものを手作りしていますが、それも一代限り。いろんな資格を取って「士族」だなんて偉そうにしていたけど、それも抹消されます。どんなものもお墓には持っていけません。
残るのは記憶だけです。それもいつまで残るかわかりませんが、少なくとも悪い記憶で残るのはイヤかな。良い人だったと崇められたいわけでなく、嫌な奴だったとは言われたくないだけ。
結局、嫌な奴だったと記憶されないためには、日々きちんと向き合っていくことが大切なのかもしれません。どんなにお金をばら蒔いても、良い記憶は買えません。何をするにしても、結局はひとつひとつきちんと正面から向き合うってことかな。
あとは、無理して残して揉めても申し訳ないから、稼いだものはそこそこ使わせてもらいましょう。・・・















