青い空と青い海、心おもむくまま

こんにちは、きくりんです。ご訪問ありがとうございます。このブログは、もともと会社員時代の社内レターを退職時にブログにアップしたことから始まりました。退職後も折々の思いをつらつらと書いております。皆さんからのご意見も嬉しいのでよろしくお願いします。

自分のこれから(2026/8/24)

八月も終わり

あっという間に八月が終わろうとしています。まだまだ暑いことは暑いけど、たまに吹く風に秋を感じるようになりました。空を見上げれば、あいかわらず入道雲がモクモクですが、朝方や夕暮れ時はウロコ雲が見られ、秋を感じます。八月は、学校がお休みなのでボランティアイベントがいろいろあったり、孫たちの襲来があったりして、ほとんど息つく暇がないくらいでした。おかげでゴルフに一度も行けておりません。ここ最近ではまあ珍しいことです、意外と暑い暑いと言いながらのゴルフも好きだったりしますので。でも、たまには仕方ないですよね。双子の孫たちは7才になりましたが、我が家に来るのを毎回楽しみにしていて、今回は二人だけで8日間泊まっていきました。特に何するわけではないのですが、庭で虫取ったり走り回ったり水掛け合ったり、近所の子供たちと旧知の仲のように遊んだり、田舎暮らしを満喫しました・・・お泊り中何度もボランティアに出掛けざるをえなくて「またでかけるの!」と怒られてばかり。でも、あと何年こんな風に私たちを相手してくれるかわかりません。できる時にできることをやってあげたいな、と思っています。・・・

さて今回は、先日娘の義父が亡くなった際にふと考えた、自分のこれからについて、つらつら考えてみました。

我慢しなくてよくなった

私の父は69才、パートナーの父は68才で他界しました。間もなく、私もその年を超えようとしています。彼らが亡くなった時、この年までは何とか生きよう、なんて思ったけど意外とあっさりクリアしそうです。先日他界された娘の義父は83才でしたから、そこまであと15年です。健康年齢はあと何年、なんて考えると、案外先は短いように感じます。だからといって、今のところ「あれもしなくてはこれもしなくては」と生き急ぐ訳でもなく、一定程度の生活パターンの中で累々と生きている、って感じでしょうか。もう実業には関わっておらず、いわゆる無職です。おかげで、会社や仕事のために我慢しなければいけないことが無くなったのがうれしい点です。とはいえ、これまでは「会社」とか「仕事」を隠れ蓑や言い訳にして、サボったり、遊んだり、諦める理由にしていましたが、それが無くなってみると、案外逃げ道が無くなってしまったようにも感じます。

我慢はなくならない

ところが、好きなだけ時間があるからといって、何でも自分のやりたいようにやれる訳でもありません。行き場というか居場所を作るために外に出れば、何をするにしても他人様と関わるわけで、思い通りにいかないことが多々あります。思い通りにいかないから「じゃ辞めます」といっても、次の行き場が見つかる保証もありません。ですから、同年代の皆さんをみていると、果たしてどこまで深く踏み込んで良いのか迷って、入り口で出たり入ったり足踏みしている方も多く見かけます。えいやと踏み込んでみればみたで、そこには昔からの流儀や仕来りなんかあったりして、それに我慢して従うか、やっぱり辞めようか、正直私も迷うところが多くあります。なんで仕事じゃないのに我慢しなけりゃいけないの、なんで他人のご機嫌を取ったりしなければいけないの・・・とはいえ、居場所がなくなって一人になるのも嫌だからと、我慢している人も多いみたいです。

やりたいことだけをやれるか

本当にやりたいことだけをやる生き方が素晴らしいなんて、実は大きな勘違いなのかもしれません。例えば、芸術家と呼ばれる方たちなど、自分の世界だけに没入し生きている方たちがいます。あれはあれでお気楽なようで、本当はとても苦しいのではないでしょうか。描かなければいけない、描くことが当たり前と思われている人たちって、上手くいっている時はいいけど、一度つまづくとホント苦しそう。何よりも、そういう生き方を選択するのであれば、他人のみならず家庭との訣別すら覚悟する必要があります。定年離婚されたならいざしらず、さあ引退だ、これからパートナーとゆっくりしようなんて思っている方たちにとっては、自分の好きな事だけに没入しよう、なんて虫の良いことは許されないかもしれません。

人間一人では生きてはいけない

人間は弱い生き物で、一人では生きていけません。そのためには、程度の差はあっても社会と関わっていくことは大切です。引退して週五日八時間縛られることがなくなり、自分のために使える時間が増えたといって、社会との関係を断つというのは拙速な気がします。自由な時間が増えたことを、全てが自分のための時間と勘違いしてはいけないと思います。他人との付き合いには妥協や我慢も必要ですが、それでも社会との関係を薄く長く続けることは大事で、自分の時間を他人や社会のために使う時間も必要だと思います。弱い人間たちは、そうやって自分の時間を出し合って、支え合って生きてきたのではないかと思います。ほんの少しでもいいので、社会に自分の時間を提供する気持ちが大事なんじゃないかと思います。

膨大なモノたち

我が家にはパートナーがいて、子供二人は各々家族がいて独立しています。傍目からみれば何の悩みもないようにみえるでしようが、悩みは諸処あります。それでも、私は十分幸せなんだと思います。いずれパートナーの母を見送ったあとは、今度は自分たちが見送られる側になります。どちらが先か、どちらも互いが先だと常に言い募っています。パートナーは子供思いで、終活と称して身の回りのモノの整理に余念がありません。ただ、36年も住んだ戸建一軒家は、もともと二世帯を想定していたため、いくらでもモノを収納する余力があり、そこに飲み込まれ隠れている数々の品は膨大です。

そして、残るのは記憶だけ

結局持ち主がいなくなってしまえば、今は大事にしていてもタダのゴミになります。好きで実用品から人形までいろいろなものを手作りしていますが、それも一代限り。いろんな資格を取って「士族」だなんて偉そうにしていたけど、それも抹消されます。どんなものもお墓には持っていけません。

残るのは記憶だけです。それもいつまで残るかわかりませんが、少なくとも悪い記憶で残るのはイヤかな。良い人だったと崇められたいわけでなく、嫌な奴だったとは言われたくないだけ。

結局、嫌な奴だったと記憶されないためには、日々きちんと向き合っていくことが大切なのかもしれません。どんなにお金をばら蒔いても、良い記憶は買えません。何をするにしても、結局はひとつひとつきちんと正面から向き合うってことかな。

あとは、無理して残して揉めても申し訳ないから、稼いだものはそこそこ使わせてもらいましょう。・・・

 

怒るのをやめる(2026/8/6)

この涼しさがありがたい

ありがたいことに今週は涼しい日が続き、暑さに疲れた身体も一休みです。というか、いつもと同じような設定でエアコン入れていたら、喉の調子がおかしくなったぐらいでした。こんな中、熊本は連日40度越えとのこと。いかに大変なことか、皆さんのご苦労に痛み入ります。この涼しい風のちょっとでもおすそ分けできたら、と願わずにいられません。

ここで私事ですが、先週末に娘の嫁ぎ先の義父が逝去されました。享年84才でした。豪快な自衛隊マンでしたが、コロナ禍前に胸を患い、外出もままならぬままの逝去でした。ここにご冥福をお祈り申しあげます。一昨日お別れに行ってきましたが、亡くなるとこんなに小さくなってしまうんだな、と改めて感じました。同じ年まで自分もあと15年です。ぼやぽやしていないで巻きを入れなくては、と誓ってまいりました。合掌・・・

常に自分が正

さて、前回「怒らない」ってことについて書きました。今回、もう少し別の角度から考えてみたいと思います。

まず、自分は会社員時代に怒らないで仕事ができていたかしら、と改めて考えてみました。答えはご明察の通り、否です。会社の方針に対して、上司に対して、部下に対して、はたまた取引先の面々に対して、大抵のことに文句をつけて怒っていたかもしれません。怒るということは、自分の考えとは違うから怒る訳でしょう。その当時の自分は、誰よりも仕事のことや会社のことを考えていて、こうすべきだ、こうあるべきだ、それが正論だ、なぜ皆それに気が付かないのか等々、常に自分が正だった気がします。例えれば地動説のような感じでしょうか。

他世代がわからない

特に、自分が年齢を重ねて部下が増えていけばいくほど、最も下の部下たちはまるで異星人でした。一つ下の世代はほぼ言葉が通じますが、二つ下の世代になると半分以上怪しくなり、三つ以上世代が離れるともうチンプンカンプンでした。そんな皆さんとコミュニケーションを取ろうと始めたのが、このブログの起源である社員あてレターです。それを今改めてみてみると、「主体的に頑張ろうとか、もっと自分で考えてみようとか、自ら動こう」なんて熱い言葉が並んでいます。

価値観の押し付け

改めて思い起こしてみると、どうやらこれは「自分の考えに合わないと怒る」ことと理屈は一緒だったようで、異星人たちにこちらの価値観を押し付けて、彼らに変革するよう一生懸命促していたのです。何だかんだと五年間叫び続けましたが、どこまで声が届いていたか、ひょっとするとアプローチを間違えていたのかもしれません。そもそも、多種多様な世代、考え方、働き方の社員たちがいて、当然各人の価値観も多様です。それを昭和30年代生まれの価値観に皆を合わせさせるなんてできる訳がないのに、それを強いていたのかもしれません。同じ価値観を全員がもつことで、ベクトルが一致し、強い組織ができるとか何とか言っちゃって。・・・あの当時はそれでよかったのかもしれないけど・・・

何も具体的に指示していない

「もっと考えてみよう、主体的にやろう」っていう掛け声は耳障りは良いのですが、実は具体性が何もありません。部下に対する抽象的な表現による指示は、ひょっとすると自身のパワハラ認定からの逃避、という深層心理が働いていたのかもしれません。それに、そんな風に言われた相手はどう感じるでしょうか。何も具体的な指示がなく、自分でなんとかしろ、と投げつけられただけと等しいのではないでしょうか。当時は、管理職が具体的な指示をすると、皆その通りに動くだけで、若い人の思考能力が育たない、自ら動かなくなる、なんて勝手に理屈付けていたものです。

具体的に言わなくてはわからない

でも今は、掛け声ばかり勇ましくても誰も踊りません、もっと具体的にはっきりと指示した方がよかったのでは、と思います。現状でのそれぞれの役割を明確にして、ヘタな感情を交えず、どうすればよいかという事実を具体的に指示するのです。察してくれよとか、感情的な頑張れエールを入れず、また教育的にどうとかとか変に配慮せず、にです。

どうして怒るのか

怒るというのは感情の直接的表現です。感情が先に立ってしまうと、その先にくるのは精神論しかありません。オレは怒っているぞ、どうしてくれるんだ、もっと根性出せ・・・と言っているのと同じです。自分と同化しないから怒る、自分の意見に同調しないから怒る、自分をリスペクトしないから怒る、・・・こうやって書き出してみれば、どこかの迷惑老人と同じではないでしょうか。自分が正かどうか、それを認めさせるのが主なのか、はたまた皆にやってもらいたいことを理解してもらいたいのか、まずそれを明確にする。皆に話を理解してもらいたいなら、頑張ってとか変な感情を交えない、つまりは怒らないで、貴方の役割はこれって明言し、いつまでにどうして欲しいのかを明確に指示する。それだけで、彼らにとって貴方が自分を見ていてくれている、と理解するのだと思います。

相手を認める

そこそこで結構、目立つ必要はない、成功する必要もない、頑張るなんてことはコスパやタイパが悪い、・・・大きく価値観が異なる今の世代の価値観を認めて受け入れて、感情を交えて熱く語ろうなんて気張らず、そして何より決して怒ったりせずに。はたまた、相手を変えてやろうなんて不遜なことはユメユメ考えずに。そうすることで、もっと深いコミュニケーションがとれていくのではないでしようか。

私自身今にしてみれば、もっとやりようがあったのに大変残念なことをしたと、部下だった皆さんには申し訳なく思います。ただ、未だに皆に無駄な同調圧力をかけたり、「今の若いモンは」とぼやきながら、分かってくれる人とだけ仲良くしている人は多くいます。そんな方には早く気がつけばよいのに、と思わずにはいられません。これは部下だけの話ではなくて、友人だったり、身内でも同じだと思います。友人や身内だから余計に、こうあらねばないない、価値観を正してやる、なんて息巻いて怒ったりしがちですが、やはり世代や育った環境が異なれば同じではないでしょうか。残念という気持ちもわかりますが、彼らにも彼らの理屈と論理があることを認めなければ、何も前進しないことを冷静に理解することも大切なのではないでしょうか。

怒らない(2026/7/31)

熊本の被災者を悼む

毎日暑い日が続きます。ピーカンだったのに、午後になると急に天気が怪しくなったり、まるで熱帯のようです。というか、日本は確実に熱帯化してきています。いえいえ、日本だけでなくヨーロッパなど北半球の諸国は、軒並み40℃を超えていて、地球全体が確実に温暖化してきているのがわかります、トランプさんが何と言おうがです。こんな暑さの中でまさかの地震発生です。熊本の皆さんのご苦労はいかばかりか、計りしれません。「ビックカメラが即日スポットクーラーを空輸」なんて、日本らしいナイスプレーです。それでも、この暑さで水もろくに出ず、電気やガスも止まっているなんて、想像を絶する地獄です。懸命に働いていらっしゃる自衛隊や警察、消防関係者の皆さんには、ホントに頭が下がります。そんな中、クーラー効かした部屋からSNSに面白おかしくガセネタを投稿なんて、卑劣な事は絶対にやめなければいけないし、同調なんか絶対にしてはいけません。今は、一日も早く余震が沈静化するよう祈るしかありませんが、私たちはできることから応援していきませんか。

用事に感謝

さて、私のボランティア活動も三年目に入りました。今は三か所でお世話になり、調停員の仕事も含めると、そこそこ時間は取られ、ほぼ毎日何か用事が入っています。それは幸せなことです、頼られる先があるということは。ですから、仕事の時に使っていたA5の手帳は未だに活躍中で、スケジュール管理に加え、モゾモゾ書きやメモ帳、或いは日記として使っています。その他にも、大判の一か月カレンダーにパートナーとお互いのスケジュールを書き込み、それで相手の行動を把握するよう取り決めています。ですから、書き洩らしなどをすると一大事です。お互い記憶力が落ちてきていますから、言ったはず聞いていないの小競り合いはしょっちゅうで、その証書がカレンダーになるからです。・・・

ボランティアに期待したこと

さて、それはどうでもよくて、ボランティアをしてみて感じたことです。会社員時代は、社内の役職とか社外の力関係など、常に誰が上か下か、そんなことを常に無意識に意識していたように記憶しています。そんなことを意識してもしようがないのに、誰々が誰々より早く出世したとか、どこの会社の業績が伸びているだとかなんやらと。何となく常に相手とマウントを取り合っていたような感じがありました。ですから、会社員人生の後半はそんなことに疲れ始めていたのも事実です。だから、利益を追求しない関係であるボランティアになれば、そんなのは無くなるだろうな、とぼんやりと期待してスタートしました。

マウントありました

ところが、これが人間という奴の性なのか、もうどちらでもよくなったはずなのに、やはりマウントの取り合いはありました。無償活動であろうと、経験者は新人に対してマウントを取りたがります。むしろ、雇用とか給与とか上下の関係がなくなった分、余計にマウントを取ろうとしたりします。若しくはまるで無関心のような方もいて、両極端です。熱心に活動している方の方が、マウンティング率は高いかもしれません。無償奉仕であろうがなかろうが、自分というアイデンティティーを認めて欲しい、これまでの努力と結果を認めさせたい、という気持ちが純粋に高まっていくのかもしれまぜん。

カチンときます

ただ、マウントされる側は、たまったものじゃない。お金の縛りの無いフィフティーな立場で参加したつもりが、いきなりマウント取られて、最初はカチンときました。相手に悪気はないことはよく分かっていても、「なに、こいつ!」ってなります。もうちょっと言い方とか教え方ってあるだろうとか、こちらも相手の揚げ足を取るようになってしまいます。その結果、結構な方がそんなのに無理して参加する意味無いって、足が遠のいてしまっています。たださえ、なり手がいなくなっているボランティアなのに、少数のマウンテンゴリラのお陰でさらに減っていく、なんて事態になっています。

入り口でジタバタしない

そこでハタと思いついたのですが、ここで怒ってもしようがないなと。本来、自分は何のためにこのボランティアに参加したのか、それを思い返そう。その本来の目的のために役に立つなら、マウントだろうが何だろうが取ってもらいましょ、どうぞ教えて下さいってね。そして、その先に行けたら、その時どうするか考えればいい。入りもしないで、入り口でジタバタしているのは、お化け屋敷の入り口みたいじゃんって。

怒るネタはいっぱいあるけれど

考え方や見方を変えることにより、新たな結果が生まれることだってあります。俺が俺が、と突っ張りあっていても何も益を生まない。相手に怒ったからって、じゃ何かが変わるのだろうか。そもそも善意のマウンテンゴリラからすれば、何のことやらわからんちん、でしょう。今の世の中、マウンテンゴリラだけでなくて、様々なところに面白くないことや嫌なことが転がっています。それってそっちの都合でしょ?とかいうような理不尽なことだらけです。だけど、それにいちいちマウント取られたとか、納得がいかないとか、目くじら立てるようなことをしていたら、こっちの身がもちません。

すぐに怒らない

そこで、少し見方を変えて、すぐに怒るのは止めてみませんか。怒ることは、その瞬間自分はスッキリするかもしれないけど、そのあとにつながらない。怒りは物事を一旦止めるだけ。(まあ、その後に怒りがパワーの原動力になるという事もあるけど。)怒るのはいつでもできるのだから、ちょっと視点をずらしてみれば、案外それは役に立つことなのかもしれないって。瞬間的に怒ってダメを出して、思考を自ら停止するのは、ある意味簡単。だけど、それじゃ生産性ないよって。どんなに怒ったって、結局それは相手がしていることに怒っている訳だから、こちらから変えることはできない、ってことを忘れない。相手はロボットではないのだから。そんなことに頭を悩ませているぐらいなら、せっかくのチャンスと捉え、この機会を最大限に生かそうと考えてみてはどうですか。

それに簡単に怒る人って、割とカッコウ悪いって言われるよ。・・・

自分の場をきれいにする(2026/7/15)

蒸し暑さが続きます

ここのところ急に暑くなってきました。暑さとしてはまだまだこんなもんじゃない、と覚悟はしておりますが、今の問題は湿度です。以前と明らかに違う点は、この湿度ではないでしょうか。これまでも暑い日は何日かありましたが、湿度はある程度低かった。しかし、ここ数日はべたつくような湿度になっています。身体が慣れていないので、それが、暑い暑いの原因ではないかしら。エアコンを効かして湿度を下げてあげるとてきめんです。早く身体を慣らさないと、ぶっ倒れてしまいます。

そんな朝のウォーキングは、日中は暑いので五時過ぎに起きて、いつものコースに行っています。海沿いの最近の五時台、六時台の人の多さは、これまでと明らかに違います。皆さん涼しいうちに、という気持ちは一緒なんですね。

皆さん大暴れ中

さて、ここのところ各国の政治家たちが大暴れして、好き放題、やり放題の感を呈しています。ロシアのウクライナ問題に始まり、アメリカのイラン問題やレッドカード介入にイスラエルの中東問題、挙句には日本の国旗棄損罪や皇室典範改正等々、挙げたらきりがないぐらい、文句も言いたいことだらけです。ただ、いくら書いても愚痴になるだけと悟り、ここでもう止めにしておきます。ただ、私たちが孫子の代に対して、今のような力の正義の横暴についてどう説明したらいいのか、今同じ時代に生きている人間として、何らかの責任を感じざるを得ません。ズルをしてもいいんじゃん?と聞かれても、返す言葉がないからです。・・・

ゴミが拾ってって言うんだ

さて、朝のウォーキングをしていると、様々なゴミが落ちているのが目に入ります。家の近くの路地しかり、国道の歩道しかり、海岸のウォーキングロードしかりです。ただ、ほとんどの人は目に入らないか、見ても自分のものではないからか、何も感じていないかのようです。以前、大谷くんがインタビューが何かで、ゴミと出会うと「拾ってくれ」と誘われる、と言っていました。シンプルに「ゴミがあれば拾うもの」と。サッカーワールドカップで大活躍した鈴木彩艶さんも、最近同じようなことを言っていました。ゴミを拾うのは趣味ですって。大谷くんが言っている「ゴミが拾ってと言っている」っていう感覚わかります。

ゴミを選んでしまってます

私の場合、ウォーキングの行きから何でもかんでもピックアップしてしまうと、先々困ってしまうので、なるべく缶とかペットボトルとか手で持てるものだけにするようにしています。それなら、途中に回収ボックスがありますから。一応、ポーチにはゴミ袋を用意していますので、量が多ければゴミ袋を出してピックアップしています。最近は公共のゴミ箱が減っていて、拾ったはいいけどいつまでも処分できずに困る、なんてことが往々にしてあります。ですから、頑張って何でもかんでも拾ってしまうと、困ってしまうこともあります。だけど、大谷くんとか彩艶くんはそんなことを考えないのかな。まずは無意識に拾ってしまうのかもしれません。そんなところが文句なしにすばらしいと思います。おじさんは先に打算が入ってしまいます、困ったもんです、まだまだです。ただひとつ不思議なのは、そういう大谷くんとか彩艶くんみたいな国民的英雄がやっていることなので「わあすごい、えらいね」とはなるけど、じゃあ「私もやろう」ってなっていないことです。そんなにカッコ悪いかな・・・そこが不思議です。

草刈しました

近所のT字路は、我が家のも含めて多くのクルマが通る道だけど、最近雑草がボウボウで、カーブミラーすらツタに覆われはじめてました。今どきのクルマはあちこちにセンサーがついているので、葉っぱが飛び出していても障害物と認識して、車を止めてくれます。有難いことですが、少し左右に寄って車が草に触った瞬間、停車してしまったりして、意外と厄介です。先日、曇り空だったのをこれ幸いと、草刈道具一式を持ってこの草や竹を切りに行きました。半日作業して、その間通過した車は一台を除いてみんな不機嫌そうでした、草の山を避けなければいけないからでしょうか。若いお母さん一台だけは「ごめんなさい、ありがとうございます」って声をかけてくれました。T字路の両角の家からは、それぞれ住民が外出していきましたが、無言の業でした。一人だけ近所のお爺さんが、「業者さんですか?、手伝いましょうか」って声を掛けてくれました。結局、一人で作業し、大きいゴミ袋の口も閉じられず状態が14袋積み上がりました。ちと疲れましたが、スムーズに車が通れるようになりましたので良し、自己満足です。昔は、こういう事をすることが何となく人の目が気になり、なかなか踏み切れませんでした。でも、やってみれば、仮にご近所さんが通っても、向こうの方がそそくさと避けるように行ってしまう、ということがよくわかりました。自分の精神衛生上やったもん勝ちですね、こういうことは。

誰かがやるんじゃない

人によっては、自分がやるのは公平じゃないとか、なんで私ばっかりがやらなければいけないのか、って考えると思います。ゴミ一つ拾うのも同じ。何で私がやらねばならないの、人の後始末を、きっと誰かがやるんでしょ、って。まあ、10中8.9以上誰もやらない確率の方が高いですね。ほとんどの人が放置、気がついていてもいろいろと理由をつけて、結局はやろうとしないし、やらない。

気が付いた者がやらせてもらう

だから、気が付いた人、気になった人がやればそれで良いのだと思います。それは決して良い子ぶってる訳ではありません。やりたいから、気になったからやる、というか、むしろやらせてもらうって発想です。実はやらせてもらったことにより、こちらはうんとお得をもらうようになります。残念ながら、その気持ちはやったことがある人にしかわかりません。それで、世の中案外バランスがとれているのかもしれません。ヒィフティーになっているのかはわかりませんが。

ただ、プライベートだろうがパブリックスペースだろうが、きれいにしておいて悪いことはありません。公私の場を問わず、草が生えてくれば抜き、ゴミが落ちていれば拾う、それで自分がいる場がきれいなる、場がきれいになっていれば自分自身機嫌よく過ごせる、機嫌のよい自分がいればその先に何かが生まれるかもしれない。・・・

だから、偉いとか偉くないとか人との比較ではなくて、誰のためでもなく、自分のためなんだと思います

 

 

蟻の一穴(2026/7/1)

梅雨の晴れ間

日曜日から数日、梅雨の晴れ間となりました。ダブル台風の先週のお天気から考えると、信じられないぐらいの好天でした。その合い間を使い、奈良旅行に行ってまいりました。パートナー共々、京都や大阪までは行っているのに、奈良という場所は初めてです。お恥ずかしい限りです。東大寺の大仏さんも法隆寺の五重の塔も、教科書でしか知らない場所で、本物を拝見して感激ひとしおです。まさに、百聞は一見にしかず。特に法隆寺の1400年という歳月の重みは、ずしーんと感じました。まったく、人間というやつは素晴らしい能力を持った生き物ですね。建築された時代にも、日本は巨大地震に襲われていましたが、その巨大な力をどう逃がして分散させるかなんて、スーパーコンピューターなどない時代にどうやって考え出しのかしら。そんな仕掛けを、模型や原寸大で作って試してみたのでしょうか。そして、それをあのスケールで木材で実現し、かつ1400年間も保たせるなんて、考えれば考えるほど驚きを隠せませんでした。

仏さまたちの素晴らしさ

また、数多くの仏像も見せて頂いてきましたが、塑造あり、木彫あり、鋳造あり、脱活乾漆造あり、と様々な技法が駆使されていて、それらが同じように1000年以上の時を経てもなお現存しているという驚き。運慶さんとか有名な仏師の仁王像なんかももちろん凄いのですが、ほとんどは名もなき仏師の制作した仏様ですから、なんと凄いことよ、と思ってしまいます。かの時代、仏教を政りごとの要にしようしていたことも関係しているのかもしれませんが、あちこちで大量に作られて、行先がないものは布でグルグル巻きにされて庫裏に放置されていたりして、実はお名前すらわからないという仏様も多くいらっしゃるとのこと。芸術作品と言ってしまうと語弊があるのかもしれませんが、あのように素晴らしき作品が、作者もタイトルも不明のままゴロゴロしていたなんて、なんと素晴らしき時代です。好みもあるかもしれませんが、飛鳥、奈良から平安、そして鎌倉、江戸へと、時代が変遷するにつれ、どんどん作品が素晴らしくなったという訳でもなく、奈良前後の仏様の素晴らしさは驚嘆すべきものです。

人間の持つ技術の素晴らしさ

日本人の平均寿命50年として計算すると、実に28世代前のご先祖様!という途方もないスケール間です。今のように便利なものがほとんどない中で、山の中で大きな木を切り倒して、持ち運べる大きさにして運び出し、乾燥させて、加工して・・・なんて工程を考えるだけでクラクラしてきます。それはきっと現代の感覚で想像するからクラクラするので、もっと大きな時間軸で考えればそれも普通なのかもしれません。ただ、建造物にしてもあの大きさです。足場もなしで組み上げたわけではないでしょうから、その工事の規模感や難易度の高さみたいなものの凄さを感じないわけにはいきません。まったく人間ってやつはなんて凄いんだ、と改めて思ってしまいました。

チームの一人一人がしっかりと仕事をした結果

お寺なんて当然一人では建築できませんから、企画したり、設計したり、材料を加工したり、細工をしたり、現場を監督したり、と様々な役割が分担されていたのでしょう。でも、凄いのはその数多くの人間が関わったチーム作業で、誰一人として手抜きをしなかったことではないでしょうか。だから、1400年たっても保っているのではないかしら。監督さんがどんなに頑張ったって全部見ていることはできません。だから、誰かがちょっと一か所サボって手を抜いてもわかりません。それでも未だに破綻がみられないのは、一人一人がどれだけ聖徳太子さまのために一生懸命働いたか、手を拭かなかったからではないでしょうか。(とはいえ1400年前だって、少しは手抜きやサボりがあったでしょうから、そういうのは前提に安全率がかけられていたと思いますけど)

蟻の一穴

話しは変わって、今回の道中少し休憩しようと、皇族方もご利用される由緒正しきホテルに入り、お茶とケーキ、サンドウィッチを楽しみました。格式高いので、とんでもない料金ですが、その代わり至れり尽くせりのサービスです。各従業員もプライドを持って対応しているのがわかり、持ち場異なっても会話の端々にそれがみてとれました。たまには、そんな世界を味わうのも悪くありません。ただ、残念だったのがサンドウィッチです。パンの一面が少し硬くなり始めていました。きっと表に出ていた面がそうなったのでしょう。我が家でもあるあるですが、如何せんコンビニのサンドの4倍以上もするメニューです。ただ、それがわかるのは、調理した方と食べた私だけ。サーブした方も、一緒にお茶をしたパートナーにもわかりません、私が言わないかぎりは。作った方は、パンに触るわけですからわからないはずはありませんが、それでも許容範囲としたのかもしれません。由緒正しいホテルとして、チームとして最高のサービスを提供するはずが、たった一人の判断でミソを付けてしまう。そして、そんなことが起こったことはチームの誰にもわからない。1400年前の木造建築とは比べるまでもありませんが、120年弱の歴史に小さな蟻の穴を開けてしまう行為だったかもしれません。誰かが見ていなくても、一人一人が最高のパフォーマンスを発揮することで、足し算ではない、掛け算の成果が生まれるのです。そうして、それがあるから何年にもわたり残っていくものになるのだろうな、と改めて思った出来事でした。今回のサンドウィッチのパンのことについては、パートナーがこのホテルでお茶をしたことを喜んでいましたし、会計時のホテルマンとの会話が面白かったので、水を差さないように私の腹の中にしまいました。ですから、まだ穴は開いていないかもしれませんけど、そろそろ危ないのかもしれません。そう考えると、あのホテルの10倍以上の歴史がある法隆寺っていったい何なのかしらって、改めてそのすごさに感心せざるを得ません。

人間って素晴らしく、そして何ともちっぽけな存在なんですね。

 

終わることに抗うって(2026/6/27)

台風がダブルだ

今週は台風がダブルで来てます。日本列島をなめるように、二つの台風が時間差攻撃で到来。特に沖縄、九州地方の方たちは、長い時間降り続いて、きっと随分と怖い思いをされたに違いありません。こちらでは昨夜の明け方から本格的に降っていますが、崖の上に建っている我が家は早くも心配になっております。それが何日間も降り続けば、どれだけ怖いだろうってお察しします。雨は適量にってお願いしたいところです。神様からは、ついこの間まで水不足云々言っていた口が何をぬかすか、と怒られそうですね。さて実は、明日から数日パートナーと奈良旅行を計画しています。できますれば、台風さんには今晩中に通り過ぎて頂けると、明日から数日梅雨の晴れ間が楽しめそうですのでよろしくお願いします。今日は外出がままなりませんので、最近ツラツラと考えていることをちょっと書かせて頂きます。

第二の人生

いま私は68才です。知り合いや友人たちは、早ければ60才過ぎから第二第三の人生を歩み始めています。会社を退職し、嘱託とかで残ったり、関係先に再就職したり、全然別の仕事を見つけたり、はたまた無職をおう歌したりしています。私も65才を過ぎて、そのまま無職を選びましたが、それはそれで楽しくやっています。ただ、第二の人生っていう言い方に少し違和感を感じます。何だか会社に勤めることが一番で、その他は二番以下って順位付けされているように感じます。社会に出るまでの幼少青年時代だって立派な人生だと思うし、仕事をしていない人生は付録みたいってなんか変じゃない、って最近思うようになりました。私も、いわゆる現役時代には気が付かなかったことです。それに、そもそも現役時代っていう言い方だって変ですよね。まるで、現役でない無役だと、人に非ずみたいに聞こえます。それとも、年を取ってひがみっぽくなっているからでしょうか。最近やけに、そんなような以前は気が付かなかったことが、気になるようになりました。

身体が元気なうちは

SNSなどで、同年代が退職後の生活を自慢したりするのをみかけると、興味半分で見てしまいますが、何だか少し寂しくなったりもします。家にいてもつまらないから時間潰しに、或いは小遣い稼ぎにと、昔からやってきた仕事を手伝ってる人もいます。でも、昔のようにバリバリと仕事をこなせる訳でもなく、ボチボチお手伝い程度のようです。いらぬ心配ですが、いつの日かアドバイスしているつもりが、老害を振り撒いている輩にならないかと。周りが眉をひそめても、残念ながら当の本人は役に立っているつもりです。・・・確かに知識と経験はあるかもしれませんが、情報がアップデートできておらず、アドバイスされた方がそれを上手に今流に翻訳できなければ、何のことかチンプンカンプンです。結局、あいつは役立たずとレッテルされてしまうのです。そんな痛い痛い自分に気が付かず、まだまだ身体が元気なうちは頑張りますから、って周りに宣言したりするから、余計に引き時が分からなくなって、ズルズルと居続けてしまったりします。人材不足が叫ばれている昨今ですから、数合わせという意味では人がいることは必要ですが、それも本人に大きな誤解を与えている一因かもしれません。

自負心と現実

ご本人の中には、業界で長年やってきたという自負心は人一倍あり、そのキャリアを簡単に終わらせたくない、と抗いたい気持ちがあるのでしょう。ただ、スポーツやどんな業界の諸先輩たちもそうですが、必ずいつか終わりがやってきます。人間というものは、知力と体力と気力の組み合わせです。それがベストに組み合わさった時の活躍は、よりよき思い出として何十年経っても残り、きっとそれをいつも無意識に追い求めてしまうのかもしれません。でも、スポーツ選手などはある意味わかりやすい。例えば、10秒で走れていたものが11秒になってしまえば、どんなに気力が充実しても自分のピークが過ぎたことを、はっきりと分からされてしまいます。残酷ですがそれが現実で、次のステージを模索していきます。でも、サラリーマンにはそこがあいまいです。パソコンをたたく速度が衰えたから終わり、という訳でもないからです。そこがとてもやっかいなところで、知力体力気力のバランスの崩れたことに気が付かぬまま、カラ回りすることになっていくのです。

終わるという恐怖を切り替える

では、そこまでして執着する気持ちってどこからくるのでしょう。終わるということに対する恐怖?でしょうか。何十年とこれしかやってこなかったから、他に何もできることない、だから今が終わるのが怖い、終わらないように一日でもしがみついていたい。・・・そんな気持ちなのでしょうか。でも、そんなゼロ百思考ってどうでしょう。ホントに何もないでしようか。何十年もの経験のある仕事の上では何でもこなせる自分がいて、それと比較しようとするから何だか縮こまって躊躇するのではありませんか。誰だって社会に出たての頃はよく失敗したし、対人関係だってそんなに上手くいかなかったはずです。何かを新しくスタートするってそんなもんだ、と割り切れば気が楽になりませんか。新入りにはどんどん失敗してそれを身に着けろって、かっては良く言いましたよね。それが、今また自分に始まるんだ、と思ったらどうでしょう。

年齢関係なくもう一度スタートラインに立とう

中途半端にしがみつくぐらいなら、自ら終わらせて、次を始めれば良いじゃないですか。それを面倒だとか、ウザいなんて言わずに。そして、私は年長者だから○○されて当然、という考えも捨てませんか。確かに体力は衰えたかもしれませんが、それはそれ。以前の自分と比較する必要なんかありません。その比較には意味がない思います、どうせ戻れないのですから。今の自分が、この先何をどうしていくか、だと思いませんか。とはいえ、何でもそんなに上手くはいかないかもしれません。それでも挑戦し続けることで、ひょっとすると何か楽しい新しき世界が発見できるかも、って期待してみるのもおもしろくないでしょうか。

ルールとは何だろう(2026/6/18)

梅雨に入りました

梅雨に入りました。だけど、いまのところ関東地方は思ったより降水量が少なめです。後半にどっちゃりと降る予定なのか、それとも空梅雨で終わってしまうのか、どちらにせよ、あまりよろしくありません。お願いですから、適度にお湿りを頂けます様お願い致します。

ワールドカップが始まった

さて、サッカーのワールドカップが始まりました。まだまだ予選段階ですが、強豪が小さな新興国に苦労したりして、分からないものですサッカーってやつは。とはいえ、見ている誰もがハンドは違反だと知っているし、オフサイドって判定難しいよねとか、決まったルールのもとで観戦しています。ルールに違反すれば勝てないことは、誰もがよく理解しています。当たり前と言えば当たり前ですが、言葉が分からなくても是非が判断ができます。ですから、ルールっていうのは英語なんかより国際的な言語と言えるのではないでしょうか。今回は、そのルールというものについて考えてみたいと思います。

ルールとは

スポーツのルールというものは、遊びの中から人間が考えだしてきたものです。石けりのような単純な遊びをより高度化したり、皆で一緒に遊べるように工夫を重ねてきた結果だと思います。逆説的かもしれませんが、ルールという縛りができたからこそ、遊びがスポーツとして一般化することができた、と言えるのではないでしょうか。ただ、ルールの解釈や運用は時代の移ろいに伴って、少しずつ変わっています。ただ、その時代時代に生きる人たちがその解釈や運用に同意することで、常に一定のルールのもとでプレーでき公平性が保たれてきた、というわけです。誰も、あえて100年前のルールで今プレーしようとはしません。ただ、流行りのピッチクロックのように、一つのプレー時間に制限を設けたりするのは時代の要請によるものなのでしょう。とはいえ、私はイヤだと言ってそれを受け入れなければ、共通の土俵に立たせてもらえず、一緒にプレーをさせてもらえません。

ルールがあるからこそ

人間は誰しもわがままですし、自分本位です。ですから、夢中になればなるほど、何としても自分が一番になりたいと思い、ちょろまかしたり、ズルをこっそりやるもんです。ただ、それを黙認すればやり放題になってしまいますし、そうなれば順位付けなんてしようがありません。だからこそ、それに歯止めをかけるルールという存在が大きな力を発揮します。ゴルフなんか特にそうです。広い草地にバラバラに散ったプレーヤーたちが、自分のボールをどう動かしたかなんて誰にもわかりゃしません。ですから、ルールという縛りで自制させることがとても大切となります。サッカーやラグビーのようにチームプレーになると、今度は審判という第三者が大事になってきます。ルールをどう厳格に公平に運用していくか、審判という動くルールブックが重要になるわけです。今では、AIなんかが映像と組み合わされて、人間より正確だからと、積極的に導入がされるようになってきています。でも、ルールがあるからこそプレーヤーたちは思いっ切ってプレーができる、といってもよいのではないでしょうか。

ルールは社会の近代化のしるし

遊びのルールについて考えてきましたが、政治のルールである憲法や法律についても、ある意味同じだと思います。家族単位で生きていた人間という動物が、小さな集落をつくり、それがだんだんと集約化し都市となり、都市が集約化し国家ができました。その集合体を、不満の出ないよう公平化するために必要だったのが、法です。法という一定のルールがあるからこそ、人々が集合体の一員として同じ方向を向くことができるわけです。法による統治が確立させることで、日常的な諍い事や窃盗、殺人などが減っていくことがてきました。仮に同意や納得はしていなくとも、法というルールのもとで万人が暮らしているのだからやむを得ない、と妥協することでコミュニティが保たれたのです。ルールができ社会が成熟し近代化したからこそ、人類は安心して子孫を増やすことができるようになったのではないでしょうか。その結果が、急速に膨れ上がっている現代なのかもしれません。

法の枠外

ところが、最近の国際情勢をみていると、誰もが法の枠外に出たがっているように思えてなりません。法というルールを超越した存在、まるで神なのか王なのかはわかりませんが、そんな存在を目指しているのでしょうか。どこかの新興国の独裁者の見そうな夢だとバカにしていましたが、今では立派な学歴をお持ちのエリートさんたちが、真剣に目指しているようです。国際法など関係ない、他国などどうでもいい、自分の国だけが豊かになればよいのだと。ある意味都合の良いレトリックです。国際社会では法は守らない、だけど自国では民に法を強権的に守らせる、ルールの一方的な改ざんです。我がチームだけにはハンドもオフサイドも適用しない、そんなサッカーなんてありますか。先生方からは、バカ言うんじゃない、政治は遊びじゃない、食うか食われるかの世界なんだ、とお叱りを受けてしまいそうです。

特権意識

つらつらと考えてみると、人間誰しも特権意識ってやつに侵されやすいのではないでしょうか。私だけが知っている、分かっているのは私だけ、みたいなプチ特権から始まって、金も地位も十分なのであとは名誉だけだ、なんて超特権さんまで。そんな人たちは、どうして自分だけルールの枠外にいられるような気がしてしまうのでしょうか。とんでもない勘違い野郎、とんでもなくご都合主義なのかしら。でもね、どんなにドリブルが上手くても、空振りするような人と同じルールで戦わなければ、サッカーしたことにならないことは誰もが知っています。同じ土俵に立たずして試合は始まりません。貴方だけが特別でルール適用外なんて、どうして言えるでしょうか。一人が特別に適用外となれば、あとから何人も特別が出てきます。蟻の一穴って知ってますよね。ルールって人間が大勢で生きるための知恵なんだと思います、それを否定する人は人類の敵とすら呼んでもよいのかもしれません・・・