青い空と青い海、心おもむくまま

こんにちは、きくよんです。ご訪問ありがとうございます。このブログの始まりは、もともと会社員時代に社の皆さんにお送りしていたレターを退職時にブログにアップしたことからです。レターでは、会社や人生における様々な悩みを見直すためのヒントや、楽しく働くきっかけ等について送っていました。退職しましたが、引き続き日々の思いをつらつらと書かせてもらっております。皆さんからのご意見を頂ければ嬉しいのでよろしくお願い致します。

蟻の一穴(2026/7/1)

梅雨の晴れ間

日曜日から数日、梅雨の晴れ間となりました。ダブル台風の先週のお天気から考えると、信じられないぐらいの好天でした。その合い間を使い、奈良旅行に行ってまいりました。パートナー共々、京都や大阪までは行っているのに、奈良という場所は初めてです。お恥ずかしい限りです。東大寺の大仏さんも法隆寺の五重の塔も、教科書でしか知らない場所で、本物を拝見して感激ひとしおです。まさに、百聞は一見にしかず。特に法隆寺の1400年という歳月の重みは、ずしーんと感じました。まったく、人間というやつは素晴らしい能力を持った生き物ですね。建築された時代にも、日本は巨大地震に襲われていましたが、その巨大な力をどう逃がして分散させるかなんて、スーパーコンピューターなどない時代にどうやって考え出しのかしら。そんな仕掛けを、模型や原寸大で作って試してみたのでしょうか。そして、それをあのスケールで木材で実現し、かつ1400年間も保たせるなんて、考えれば考えるほど驚きを隠せませんでした。

仏さまたちの素晴らしさ

また、数多くの仏像も見せて頂いてきましたが、塑造あり、木彫あり、鋳造あり、脱活乾漆造あり、と様々な技法が駆使されていて、それらが同じように1000年以上の時を経てもなお現存しているという驚き。運慶さんとか有名な仏師の仁王像なんかももちろん凄いのですが、ほとんどは名もなき仏師の制作した仏様ですから、なんと凄いことよ、と思ってしまいます。かの時代、仏教を政りごとの要にしようしていたことも関係しているのかもしれませんが、あちこちで大量に作られて、行先がないものは布でグルグル巻きにされて庫裏に放置されていたりして、実はお名前すらわからないという仏様も多くいらっしゃるとのこと。芸術作品と言ってしまうと語弊があるのかもしれませんが、あのように素晴らしき作品が、作者もタイトルも不明のままゴロゴロしていたなんて、なんと素晴らしき時代です。好みもあるかもしれませんが、飛鳥、奈良から平安、そして鎌倉、江戸へと、時代が変遷するにつれ、どんどん作品が素晴らしくなったという訳でもなく、奈良前後の仏様の素晴らしさは驚嘆すべきものです。

人間の持つ技術の素晴らしさ

日本人の平均寿命50年として計算すると、実に28世代前のご先祖様!という途方もないスケール間です。今のように便利なものがほとんどない中で、山の中で大きな木を切り倒して、持ち運べる大きさにして運び出し、乾燥させて、加工して・・・なんて工程を考えるだけでクラクラしてきます。それはきっと現代の感覚で想像するからクラクラするので、もっと大きな時間軸で考えればそれも普通なのかもしれません。ただ、建造物にしてもあの大きさです。足場もなしで組み上げたわけではないでしょうから、その工事の規模感や難易度の高さみたいなものの凄さを感じないわけにはいきません。まったく人間ってやつはなんて凄いんだ、と改めて思ってしまいました。

チームの一人一人がしっかりと仕事をした結果

お寺なんて当然一人では建築できませんから、企画したり、設計したり、材料を加工したり、細工をしたり、現場を監督したり、と様々な役割が分担されていたのでしょう。でも、凄いのはその数多くの人間が関わったチーム作業で、誰一人として手抜きをしなかったことではないでしょうか。だから、1400年たっても保っているのではないかしら。監督さんがどんなに頑張ったって全部見ていることはできません。だから、誰かがちょっと一か所サボって手を抜いてもわかりません。それでも未だに破綻がみられないのは、一人一人がどれだけ聖徳太子さまのために一生懸命働いたか、手を拭かなかったからではないでしょうか。(とはいえ1400年前だって、少しは手抜きやサボりがあったでしょうから、そういうのは前提に安全率がかけられていたと思いますけど)

蟻の一穴

話しは変わって、今回の道中少し休憩しようと、皇族方もご利用される由緒正しきホテルに入り、お茶とケーキ、サンドウィッチを楽しみました。格式高いので、とんでもない料金ですが、その代わり至れり尽くせりのサービスです。各従業員もプライドを持って対応しているのがわかり、持ち場異なっても会話の端々にそれがみてとれました。たまには、そんな世界を味わうのも悪くありません。ただ、残念だったのがサンドウィッチです。パンの一面が少し硬くなり始めていました。きっと表に出ていた面がそうなったのでしょう。我が家でもあるあるですが、如何せんコンビニのサンドの4倍以上もするメニューです。ただ、それがわかるのは、調理した方と食べた私だけ。サーブした方も、一緒にお茶をしたパートナーにもわかりません、私が言わないかぎりは。作った方は、パンに触るわけですからわからないはずはありませんが、それでも許容範囲としたのかもしれません。由緒正しいホテルとして、チームとして最高のサービスを提供するはずが、たった一人の判断でミソを付けてしまう。そして、そんなことが起こったことはチームの誰にもわからない。1400年前の木造建築とは比べるまでもありませんが、120年弱の歴史に小さな蟻の穴を開けてしまう行為だったかもしれません。誰かが見ていなくても、一人一人が最高のパフォーマンスを発揮することで、足し算ではない、掛け算の成果が生まれるのです。そうして、それがあるから何年にもわたり残っていくものになるのだろうな、と改めて思った出来事でした。今回のサンドウィッチのパンのことについては、パートナーがこのホテルでお茶をしたことを喜んでいましたし、会計時のホテルマンとの会話が面白かったので、水を差さないように私の腹の中にしまいました。ですから、まだ穴は開いていないかもしれませんけど、そろそろ危ないのかもしれません。そう考えると、あのホテルの10倍以上の歴史がある法隆寺っていったい何なのかしらって、改めてそのすごさに感心せざるを得ません。

人間って素晴らしく、そして何ともちっぽけな存在なんですね。

 

終わることに抗うって(2026/6/27)

台風がダブルだ

今週は台風がダブルで来てます。日本列島をなめるように、二つの台風が時間差攻撃で到来。特に沖縄、九州地方の方たちは、長い時間降り続いて、きっと随分と怖い思いをされたに違いありません。こちらでは昨夜の明け方から本格的に降っていますが、崖の上に建っている我が家は早くも心配になっております。それが何日間も降り続けば、どれだけ怖いだろうってお察しします。雨は適量にってお願いしたいところです。神様からは、ついこの間まで水不足云々言っていた口が何をぬかすか、と怒られそうですね。さて実は、明日から数日パートナーと奈良旅行を計画しています。できますれば、台風さんには今晩中に通り過ぎて頂けると、明日から数日梅雨の晴れ間が楽しめそうですのでよろしくお願いします。今日は外出がままなりませんので、最近ツラツラと考えていることをちょっと書かせて頂きます。

第二の人生

いま私は68才です。知り合いや友人たちは、早ければ60才過ぎから第二第三の人生を歩み始めています。会社を退職し、嘱託とかで残ったり、関係先に再就職したり、全然別の仕事を見つけたり、はたまた無職をおう歌したりしています。私も65才を過ぎて、そのまま無職を選びましたが、それはそれで楽しくやっています。ただ、第二の人生っていう言い方に少し違和感を感じます。何だか会社に勤めることが一番で、その他は二番以下って順位付けされているように感じます。社会に出るまでの幼少青年時代だって立派な人生だと思うし、仕事をしていない人生は付録みたいってなんか変じゃない、って最近思うようになりました。私も、いわゆる現役時代には気が付かなかったことです。それに、そもそも現役時代っていう言い方だって変ですよね。まるで、現役でない無役だと、人に非ずみたいに聞こえます。それとも、年を取ってひがみっぽくなっているからでしょうか。最近やけに、そんなような以前は気が付かなかったことが、気になるようになりました。

身体が元気なうちは

SNSなどで、同年代が退職後の生活を自慢したりするのをみかけると、興味半分で見てしまいますが、何だか少し寂しくなったりもします。家にいてもつまらないから時間潰しに、或いは小遣い稼ぎにと、昔からやってきた仕事を手伝ってる人もいます。でも、昔のようにバリバリと仕事をこなせる訳でもなく、ボチボチお手伝い程度のようです。いらぬ心配ですが、いつの日かアドバイスしているつもりが、老害を振り撒いている輩にならないかと。周りが眉をひそめても、残念ながら当の本人は役に立っているつもりです。・・・確かに知識と経験はあるかもしれませんが、情報がアップデートできておらず、アドバイスされた方がそれを上手に今流に翻訳できなければ、何のことかチンプンカンプンです。結局、あいつは役立たずとレッテルされてしまうのです。そんな痛い痛い自分に気が付かず、まだまだ身体が元気なうちは頑張りますから、って周りに宣言したりするから、余計に引き時が分からなくなって、ズルズルと居続けてしまったりします。人材不足が叫ばれている昨今ですから、数合わせという意味では人がいることは必要ですが、それも本人に大きな誤解を与えている一因かもしれません。

自負心と現実

ご本人の中には、業界で長年やってきたという自負心は人一倍あり、そのキャリアを簡単に終わらせたくない、と抗いたい気持ちがあるのでしょう。ただ、スポーツやどんな業界の諸先輩たちもそうですが、必ずいつか終わりがやってきます。人間というものは、知力と体力と気力の組み合わせです。それがベストに組み合わさった時の活躍は、よりよき思い出として何十年経っても残り、きっとそれをいつも無意識に追い求めてしまうのかもしれません。でも、スポーツ選手などはある意味わかりやすい。例えば、10秒で走れていたものが11秒になってしまえば、どんなに気力が充実しても自分のピークが過ぎたことを、はっきりと分からされてしまいます。残酷ですがそれが現実で、次のステージを模索していきます。でも、サラリーマンにはそこがあいまいです。パソコンをたたく速度が衰えたから終わり、という訳でもないからです。そこがとてもやっかいなところで、知力体力気力のバランスの崩れたことに気が付かぬまま、カラ回りすることになっていくのです。

終わるという恐怖を切り替える

では、そこまでして執着する気持ちってどこからくるのでしょう。終わるということに対する恐怖?でしょうか。何十年とこれしかやってこなかったから、他に何もできることない、だから今が終わるのが怖い、終わらないように一日でもしがみついていたい。・・・そんな気持ちなのでしょうか。でも、そんなゼロ百思考ってどうでしょう。ホントに何もないでしようか。何十年もの経験のある仕事の上では何でもこなせる自分がいて、それと比較しようとするから何だか縮こまって躊躇するのではありませんか。誰だって社会に出たての頃はよく失敗したし、対人関係だってそんなに上手くいかなかったはずです。何かを新しくスタートするってそんなもんだ、と割り切れば気が楽になりませんか。新入りにはどんどん失敗してそれを身に着けろって、かっては良く言いましたよね。それが、今また自分に始まるんだ、と思ったらどうでしょう。

年齢関係なくもう一度スタートラインに立とう

中途半端にしがみつくぐらいなら、自ら終わらせて、次を始めれば良いじゃないですか。それを面倒だとか、ウザいなんて言わずに。そして、私は年長者だから○○されて当然、という考えも捨てませんか。確かに体力は衰えたかもしれませんが、それはそれ。以前の自分と比較する必要なんかありません。その比較には意味がない思います、どうせ戻れないのですから。今の自分が、この先何をどうしていくか、だと思いませんか。とはいえ、何でもそんなに上手くはいかないかもしれません。それでも挑戦し続けることで、ひょっとすると何か楽しい新しき世界が発見できるかも、って期待してみるのもおもしろくないでしょうか。

ルールとは何だろう(2026/6/18)

梅雨に入りました

梅雨に入りました。だけど、いまのところ関東地方は思ったより降水量が少なめです。後半にどっちゃりと降る予定なのか、それとも空梅雨で終わってしまうのか、どちらにせよ、あまりよろしくありません。お願いですから、適度にお湿りを頂けます様お願い致します。

ワールドカップが始まった

さて、サッカーのワールドカップが始まりました。まだまだ予選段階ですが、強豪が小さな新興国に苦労したりして、分からないものですサッカーってやつは。とはいえ、見ている誰もがハンドは違反だと知っているし、オフサイドって判定難しいよねとか、決まったルールのもとで観戦しています。ルールに違反すれば勝てないことは、誰もがよく理解しています。当たり前と言えば当たり前ですが、言葉が分からなくても是非が判断ができます。ですから、ルールっていうのは英語なんかより国際的な言語と言えるのではないでしょうか。今回は、そのルールというものについて考えてみたいと思います。

ルールとは

スポーツのルールというものは、遊びの中から人間が考えだしてきたものです。石けりのような単純な遊びをより高度化したり、皆で一緒に遊べるように工夫を重ねてきた結果だと思います。逆説的かもしれませんが、ルールという縛りができたからこそ、遊びがスポーツとして一般化することができた、と言えるのではないでしょうか。ただ、ルールの解釈や運用は時代の移ろいに伴って、少しずつ変わっています。ただ、その時代時代に生きる人たちがその解釈や運用に同意することで、常に一定のルールのもとでプレーでき公平性が保たれてきた、というわけです。誰も、あえて100年前のルールで今プレーしようとはしません。ただ、流行りのピッチクロックのように、一つのプレー時間に制限を設けたりするのは時代の要請によるものなのでしょう。とはいえ、私はイヤだと言ってそれを受け入れなければ、共通の土俵に立たせてもらえず、一緒にプレーをさせてもらえません。

ルールがあるからこそ

人間は誰しもわがままですし、自分本位です。ですから、夢中になればなるほど、何としても自分が一番になりたいと思い、ちょろまかしたり、ズルをこっそりやるもんです。ただ、それを黙認すればやり放題になってしまいますし、そうなれば順位付けなんてしようがありません。だからこそ、それに歯止めをかけるルールという存在が大きな力を発揮します。ゴルフなんか特にそうです。広い草地にバラバラに散ったプレーヤーたちが、自分のボールをどう動かしたかなんて誰にもわかりゃしません。ですから、ルールという縛りで自制させることがとても大切となります。サッカーやラグビーのようにチームプレーになると、今度は審判という第三者が大事になってきます。ルールをどう厳格に公平に運用していくか、審判という動くルールブックが重要になるわけです。今では、AIなんかが映像と組み合わされて、人間より正確だからと、積極的に導入がされるようになってきています。でも、ルールがあるからこそプレーヤーたちは思いっ切ってプレーができる、といってもよいのではないでしょうか。

ルールは社会の近代化のしるし

遊びのルールについて考えてきましたが、政治のルールである憲法や法律についても、ある意味同じだと思います。家族単位で生きていた人間という動物が、小さな集落をつくり、それがだんだんと集約化し都市となり、都市が集約化し国家ができました。その集合体を、不満の出ないよう公平化するために必要だったのが、法です。法という一定のルールがあるからこそ、人々が集合体の一員として同じ方向を向くことができるわけです。法による統治が確立させることで、日常的な諍い事や窃盗、殺人などが減っていくことがてきました。仮に同意や納得はしていなくとも、法というルールのもとで万人が暮らしているのだからやむを得ない、と妥協することでコミュニティが保たれたのです。ルールができ社会が成熟し近代化したからこそ、人類は安心して子孫を増やすことができるようになったのではないでしょうか。その結果が、急速に膨れ上がっている現代なのかもしれません。

法の枠外

ところが、最近の国際情勢をみていると、誰もが法の枠外に出たがっているように思えてなりません。法というルールを超越した存在、まるで神なのか王なのかはわかりませんが、そんな存在を目指しているのでしょうか。どこかの新興国の独裁者の見そうな夢だとバカにしていましたが、今では立派な学歴をお持ちのエリートさんたちが、真剣に目指しているようです。国際法など関係ない、他国などどうでもいい、自分の国だけが豊かになればよいのだと。ある意味都合の良いレトリックです。国際社会では法は守らない、だけど自国では民に法を強権的に守らせる、ルールの一方的な改ざんです。我がチームだけにはハンドもオフサイドも適用しない、そんなサッカーなんてありますか。先生方からは、バカ言うんじゃない、政治は遊びじゃない、食うか食われるかの世界なんだ、とお叱りを受けてしまいそうです。

特権意識

つらつらと考えてみると、人間誰しも特権意識ってやつに侵されやすいのではないでしょうか。私だけが知っている、分かっているのは私だけ、みたいなプチ特権から始まって、金も地位も十分なのであとは名誉だけだ、なんて超特権さんまで。そんな人たちは、どうして自分だけルールの枠外にいられるような気がしてしまうのでしょうか。とんでもない勘違い野郎、とんでもなくご都合主義なのかしら。でもね、どんなにドリブルが上手くても、空振りするような人と同じルールで戦わなければ、サッカーしたことにならないことは誰もが知っています。同じ土俵に立たずして試合は始まりません。貴方だけが特別でルール適用外なんて、どうして言えるでしょうか。一人が特別に適用外となれば、あとから何人も特別が出てきます。蟻の一穴って知ってますよね。ルールって人間が大勢で生きるための知恵なんだと思います、それを否定する人は人類の敵とすら呼んでもよいのかもしれません・・・

 

文句が多い人(2026/6/8)

梅雨入りです

いよいよ関東地方も梅雨入りしました。鬱陶しいシーズンの始まりです。雨は嫌いではありませんが、湿度が高いのがイヤですね。ベタっとした感じが好きではありません。カラッとした梅雨ってないものでしょうか。近年は昨年のように、梅雨といいつつ、あっという間に終わってしまう、なんてことがたびたび起きるようになっていて、毎年のように水不足が心配されます。特に今年は、中東情勢から石油由来製品の不足が顕在化しつつあり、それに水まで節水となるとホントに生活しにくくなります。貯水量に関しては高市さんにもどうしようもないでしょうが、ある時いきなり戒厳令を敷く、なんてことだけはしないで頂きたい、と切に願います。

さて、今回は「文句が多い人」について考えたいと思います。

猿島

何かにつけて文句を言う人

会社でも、友達でも、そこかしこに、何かにつけて文句言う人って、結構います。何があっても、文句から話を始める。天気が悪くても、道路が混んでいても、少し値段が高くなっても、ちょっとでも自分の思いと異なると、まずは文句を言います。そういう方は、良い方に変わっても、それはそれでひと言文句です。予想より良いお天気だったり、思ったより道が空いていたり、意外に安かったりしても、どこかにケチを付けます。それがご挨拶程度であれば、周りの私たちも気楽に聞き流せますが、ねちっこかったり、しつこかったりすると、私たちも不機嫌の嵐に巻き込まれてしまいます。そんなの聞きたくない、どうでもいい、できれば避けたいって、普通の感覚では思うのではないでしょうか。

巻き込まないで

普通の感覚では、会っていきなり文句を言われたら返答に困ってしまいます。自分に関係ない第三者の事で文句を言われても、それを私に言われても・・・と返答に窮してしまいます。片や文句タラタラさんは、こちらの気持ちなどお構い無しに、自分がいかに大変か、不幸になったか、迷惑を被ったか等々、滔々とまくしたてて、ご自分的にはすっきりするようです。たいていの場合、真面目というよりむしろ怖い顔で迫られます。そんな予期せぬ不幸のバトンを渡された方からしてみれば、爽やかな朝がいきなりドツボの底に落ちて、散々な気持ちにされてしまいます。「まったく何なんだ」と、持っていく先のない怒りがフツフツと湧いてきます。

何で文句から入るの

どうして、文句の多い人は文句から会話に入るのでしょうか。自分は大変なんだ、こんなに苦労しているんだという事をわかってもらいたくて、同情してもらいたいのでしょうか。それとも、貴方だけに本音を言うよって親し気な感じのつもりで、文句を垂れるのでしょうか。それとも、私はいつもいろいろと考えているんだ、だから、あれが悪いんだ、これがおかしい、あれが無ければいいのに、あの人さえいなければ・・・と正論を主張したいのでしょうか。でも、ほとんどの方は無意識に文句を言っているのかもしれません。口から自然に文句があふれ出ていることに、気が付いていないのではないでしょうか。

批判は簡単

当事者でない人が、当事者やその周辺を批判することは簡単です。また、直接自分で変えられない、環境とか、社会とか、経済とか、政治などを批判することも簡単です。自分は頑張っているけど、周りが悪いので成果を出せないんだ。会社などではまさにアルアルです。上司が理解しないから、組織がおかしいから、必要な人材や資源がないから、業界がおかしいから、そもそもユーザーがおかしいから・・・たいていの人は、褒め言葉より文句の方が、いくらでも際限なくひねり出すことはできます。ネタは付きません。ただ、それをあえて口に出して言うか、それをせいにするかどうかは別ですが。

共感は得られない

文句の多い人は、それを聞いている周りの人がどう感じるかなんて想像したことはないのかもしれません。むしろ、皆だってそう思っているはずだ、共感を得るために言っているんだ、文句を言うことでご自分を正当化したいのかもしれません。でも、普通の感覚ではそれは違うと思います。誰だって文句ばかり聞かされていれば、少しはその通りかもって思ったとしても、同意するより先に嫌気が差してしまい、共感などしません。そうすると、さらに文句を重ねて共感や同意を得ようとやっきになるわけですが、それは悪循環というものです。

言霊

私は、言葉って呪文のようなものだと思います。言霊っていう言葉があるぐらいですから。口から発した、自分から出ていった言葉は、出た瞬間から自分のものではなくなり、一人歩きします。それが本人の意図と異なっていても、です。文句として発した言葉は、軽い気持ちだったとしても、冗談だったとしても、周りからそうは受け取られないかもしれません。そして、そのネガティブな力は、いずれ本人に返ってくると思います。つまり、軽い気持ちだったとしても、文句という言霊は周りの人を暗くし、最後は本人にブーメランのように戻ってきて、負の連鎖が始まります。それでは良い仕事はできませんし、良い人間関係も作れません。文句の多い人は、自分が軽い気持ちで発した言葉が自らを縛り、自らの発展や成長を阻害し止めていることに、気が付いた方が良さそうです。

あえて前向きなことを言う

人間生きていれば、いろいろとあります。だから、あれがダメ、これがイヤ、こうなればいいのに、ああなればいいのに、と誰しもが思っています。だけど、だからといって皆でそれを単にぶつけ合うってどうでしょう。お互いに頭を叩き合うような状態に、何ら発展性はなく、何ら前進しません。仮にネガティブな気持ちを抱いたとしても、それを怖い顔して口に出さず、笑顔で前向きな言葉をあえて口に出す。そうすることで、ひょっとすると福の神が少しでも振り向いてくれる、なんて考えられませんか。文句ばかり言っていても決して何も良い事はありません。あえて前向きなことを口にしてみて下さい。そういう努力を続けていくうちに、何かが変わっていくのではないでしょうか。そんなちょっとしたことの積み重ねで人も周りも変わります。今日からその「思わず文句を一言」を禁止にしませんか。

 

玉置浩二と自分の甘さと(2026/5/28)

お久しぶりです

お久しぶりです。三週間ぶりでしょうか。今月五月は何かと用事が多かったので、じっくりとブログを書く時間がなかなか取れませんでした。とはいえ、どうしても書こうと思えば書けたはずですで、今月は自分の中でブログの優先順位が低かったのでしょう、きっと。読んで頂いている方にはごめんなさいです。

玉置浩二コンサート

昨日は、年初にまるでお年玉のように当選した、玉置浩二のコンサートに行ってきました。横浜のKアリーナで、オーケストラとの共演です。さらにラッキーなことに、席はレベル3のロアースタンドでしたので、ステージが良く見える良い席でした。2万人がじっと息をひそめて、たった一人の一挙一投足を見つめてるって、何だかすごい。彼も、何度もマイク無しの生歌を歌ってくれました。同い年ですが、ホントにすごいなあ。昨日はツアーの最終日ということもあったのかもしれませんが、予定外(たぶん)のアンコールも歌ってくれて、ファンは大満足だったのではないでしょうか。

さすがプロ

ステージの上には大きなモニター画面も二つ用意されていて、レベル7でも見やすいように工夫されていました。驚きなのは、誰もミスらないこと。何台もカメラが設置されていましたが、各々の楽器のパートをきちんと的確に追いかけているし、画面の切り替えも上手にフェードインアウトをしてドンピシャでした。さすがプロです。

プロといえばオーケストラの皆さんもそうです。昨日は東京交響楽団さんでしたが、どの楽器パートにしてもきちんと音を出していました、当たり前だよ、ってパートナーは言ってましたが、人間なんだからたまにプーとかピーとかスカッと音が抜けたりしないのかしら。一台しかなくて、たまにしか番が回ってこない太鼓のような楽器とか、ほんと大変そうです。また、何度もアンコールをされて、都度アレンジが変わったりしても、よく皆さん一糸乱れずに対応できるなって感心至極でした。これがプロってものですね。

自分はできるかしら

自分に置き換えてみるとよくわかります。同じ年の彼があれだけの声量を維持できるのには、きっとものすごい努力があるのはないでしょうか。(実は、五年ぐらい前に国際フォーラムのコンサートにも行ったのですが、その時はもっと凄かった、やはり寄る年波ってやつは何かしらあるんですね…)。何でも好きなように好きなものを食べて、お酒も飲んで、何の節制もせずにグータラやっていては、このように維持はできないでしょう。オケの楽団員もそうでしょう。そもそも発表の機会がどんどん減っている中で、古典クラシックの演奏だけでなく、こういうポップスの伴奏もしなければいけない訳で、そういう環境下で技量を維持するというのは、本当に大変だと思います。

逗子の虹

サボりの達人

人間はちょっと何かあればサボりたくなります。理由はいろいろつけられます。今日は特別な日だから、今回は事情が違うから等々、何でも理由にすることはできます。誰でも自分に甘いんです(他人には厳しいけどね)。他人の目が届かないところでズルするって簡単です。ズルってことに罪悪感すら持たない人も多いかもしれません。でも、歌にしても演奏にしても、一日練習をサボれば、それが数日単位でリバウンドするのではないでしょうか。元のレベルを取り戻すのに何倍もの努力が必要でしょう。それでメシ喰っているのだから当たり前、といってしまえばそれまでですが、まさに自分の腕一本で生きているわけですから、ちょっとしたことも含め毎日が葛藤ではないでしょうか。

宮使えの甘さ

それでは、宮仕えの方々はどうですか。そこまで自分の仕事に賭けているでしょうか。頑張ってちゃんとやっているかどうかなんて、周りの人には本当のところはわかりません。ですから、口先で誤魔化すことも簡単です。自分を甘やかのは簡単です。今日はいいや、明日やればいいや、いや来週でもいいか、面倒だから来月にするか・・・宮仕えも成果で評価されると言いますが、プロジェクトなどであれば明確に結果は出ますが、主な仕事がルーチン業務である方は実は多いと思います。そんな方たちは簡単に先送りができます。担当範囲ならトコロテン式に遅らせることも可能ですし、少しずつジリジリと遅らせることも可能です。そう考えると、実は宮仕えの方も毎日自分というものを試されているのではないでしょうか。でも、そんなことを考えて働いている方はいないのかもしれませんね。

アボガドが芽を出しました

自分に向き合う

自分に向き合い、自分を律し、やるべきことをやるべき時にやる。それを長く続けると、いずれ目に見える形となって具現化されていく訳です。残念ながら今日やったことが明日成果としてみえる訳ではありません、さっさと結果が出ないからといって、真面目にやるのは無駄だ、サボろう、ってなれば結局いつまでたっても、大成できません。ですから、年齢を重ね立派な見た目の大人になっても、中身はといえば幼き頃のまま、なんて方がいるわけです。ただ、だからといって修行僧のように粉骨砕身し全てを捨てて我慢をしろ、と言いたいわけではありません。安易に安きに流れないで、と言いたいのです。自分というものが、勝手に低いところを見つけて、水のようにこぼれ落ちそうになったら、垂れ落ちる前に立ち止まっては、と言いたいのです。そんな気持ちの揺れや相克、さあどうしよう、ああしようかこうしようかと迷っている自分ってやつが、人間らしくていいんじゃないって思うぐらいの余裕、自分を第三者的に見られるぐらいの客観性があっても良いのかもしれません。

最後にひとつ。玉置さんも白髪の蓬髪、指揮者の大友直人さんも白髪のロン毛でした。お二人をみていると、何だか鏡が真ん中に置かれているように見えて、とてもコミカルで、温かみを感じたコンサートでした。

 

 

知ったかぶり(2026/5/7)

今年のゴールデンウイーク

今年のゴールデンウイークは、お天気が不安定でした。急に雨が降ってきたり、朝からしっかりと雨だったり、強風が吹き荒れた日もありました。終日五月晴れって日は、一日ぐらいしかなかった感じです。そんなお天気のお陰か、GW前半の昼間、平塚まで車で海沿いを走りましたが、まるで冬の平日のようで行きも帰りもガラガラでした。唯一人が多かったのは鎌倉高校前の例の撮影スポットだけで、ゴールデンウイーク真っただ中とは思えませんでした。今年は暦通り出勤されている方が多いのでしょうか。円も安いし、燃料サーチャージも爆上がりしたし、海外旅行に行けるのは株長者のみなのかな。

さて、今回は「知ったかぶり」について考えてみます。つまらないプライドのために周りに迷惑かけまくっている「知ったかぶりさん」って、意外と多いのではないでしょうか。

若いくせに知ったかぶり

例えば、入ったばかりの新入社員さん。学校で少し学んだことが実際の仕事に出てくると、一を聞いて十わかった気になるのかな。「私知ってますから」って、知ったかぶりする人がいます。聞きかじっただけの知識と、様々な失敗や積み重ねを伴う実際の業務に紐づいた経験知とでは、まるっきり重みが違います。表面的には同じにみえるのかもしれませんが、経験しなければ分からないことって多々あります。それを味噌クソ一緒にして知ったかぶりする人。そして、わかったフリしちゃう人。授業じゃないのに周りより早く手を挙げればいい、と勘違いしている人。残念ながら、会社というところには努力賞はありません。がんばっただけではお金にはなりません。むしろじっくりと、自分の持っている知識に、そこに蓄積されている様々な経験知を上書きして、自分を高めていくことが大切なのに。入ったばかりで、いっぱしに仕事ができるなんて誰も期待していません。今はむしろ、そんな立場を上手に生かして、何でもかんでもどん欲に漁りまくる時期ではないかしら。・・・

学ぼうとする心構え

たかだか20数年間の人生のちっぽけなプライドなんて、その胸にしまいこみ、もっと虚心坦懐に学ぼうとする姿勢が大事です。この若い時期に自ら学ぶことがてきなければ、ずっと一生学ぶってことができなくなります。学ぶってことは心構えであり、姿勢です。「この会社は教えてくれない、成長できない」と、サッサと退社する方が多いといわれている今日ですが、会社というところは座っていれば成長させてくれるところではありません、自ら動いて成長をしていくところです。学校時代はずっと教えてもらってばかりだったから、その延長だと勘違いしていませんか。会社では誰も手取り足取り教えてくれないし、仮にそうしてくれたとしたら、それこそ成長できません。成長するには、本人から学ぼうとする姿勢が大切です。学ぶふりして口だけ開けていてもダメですよ。

管理職の知ったかぶり

さらに困ったちゃんなのが、管理職なのに知ったかぶりする人です。会社や組織にはいろいろな都合があり、最適任でない異動なんてちょくちょくあります。未経験なのに経験者を管理しなければいけなくなってしまった管理職なんて、よくおみかけします。ベテランな部下たちは、鵜の目鷹の目であなたの一挙一投足を観ています。あなたのレベルを図ろうと、わざと難しい質問を投げかけてみたり。そんな時、あなたはどう応えますか。知ったかぶりして、わかった風に受け答えてしまいますか。それは、ここでバカにされてしまうと今後彼らを管理できなくなるから、ですか。いったい管理するってどういうことでしょうか?、部下をコントロールするってこと?、自分の思い通りにすること?。足元が定まっていない人に、誰もついてなんかいきませんよ。・・・

地位が人を勘違いさせる

さらに困るのが、経験や知識があろうとなかろうと関係ない、この地位に就いたのだから私に任せておけ、何でも私が判断する、という知ったかぶりです。それは、知ったかぶりを超越し、何でもかんでも自分という方です。上司たるものは、という誤った正義感を振りかざすことにより、経験豊かな部下たちはついていけなくなってしまいます。やる気そのものも失われてしまいます。ところがその管理職の上役さんたちは、あの人に任せたのだからと、現場を見ようともせず、いい加減な報告を鵜呑みにする。そんなある日、組織がガタガタになってしまっていることが判明するのです。既に人心は離反し、退職者が続出し、収益も落ち始めている・・・やっかいなのは、そんな危機的状況がはっきりと顔を出すのは、意外と遅いってこと。ヘタすれば、その管理職が異動していなくなった後だったりします。ですから、そんな勘違い野郎はしっかりとウォッチしておくことが大事ですね。

地位に関係なく学ぶ姿勢

そもそも管理職たるものが、部下にモノを教えてもらうことは恥ずかしいことですか。知らないことを新たに学ぶために、学校に通ったり、通信教育を受けたりすることって、ダサいのでしょうか。管理職ともなれば、今までにない新たな付き合いが拡がります。それは魅力的ですし、時間もけっこう取られます。だから、勉強する時間など無いのでしょうか。もういい加減な年齢だから、学ぶなんて面倒なんでしょうか。

そもそも貴方は、どうしようとしているのですか。たまたまその地位に就いたので、位負けしないように振舞わなければいけない、ぐらいにしか考えていないのかしら。そんなあなたの勘違いや知ったかぶりが、いったいどれだけ周りに迷惑をかけている事か、想像したことありますか。「まさか、自分だけは違うよ、私は謙虚だから」なんて、それが最も大きな勘違いなんです。

偉くなればなるほど、年齢を重ねるほど、いまの自分を客観視できなくなっていく、ってことを忘れないようにしましょう、よろしくお願いします。

わかっちゃいるけど(2026/4/28)

本日晴天なり

今朝は、昨日の雨がウソのような晴天です。風も温かく適度にそよぎ、まさに洗濯日和です。昨夜は、久しぶりに元の会社の方たちと騒いだので、少し頭が重いけど、コーヒーを飲んでスッキリさせています。東京に出たついでに、河鍋暁斎展を観させて頂きました。何とも洒脱な筆捌きで、こんな自由人が江戸から明治にかけていたなんてすごい!それを発見して収集するイギリスのゴールドマンさんも偉い!お堅い日本画の先生や派閥からスポイルされた暁斎さんを、こうやって100年以上が経った今でも、色鮮やかに観ることができるのは、優れた芸術を後世に伝えるという美術家としての使命を立派に果たしている方がいるんだ、と感心至極でした。是非ご高覧あれ。

さて話は変わって、家庭でも会社でも分かっちゃいるけどといいつつ、サッサとやらずに、結局最後に大慌て若しくは間に合わず、なんて人よくいます。なんで、人は分かっちゃいるのにサッサとやらないのでしょうか。

 

溜める人

指示されたこと、頼まれたこと、やらなければいけないこと、やっておいた方が良さそうなこと等々。・・・人間は生きているかぎり、会社でも家庭でも、他人と関わって生きていかなければねなりません。一人で生きている人だって、無人島生活者以外は最低限の関りを社会と持たなければなりません。そんな中で、他人からのお願いは受動的にいつもついて回ります。自分の中に他人の依頼が入り込むと、その優先順位をどうしようかとなります。そして、いろいろな理由から依頼を溜め込む人が結構いらっしゃいます。完璧にこなさなければいけないと思いその一歩が踏み出せない人、慎重に準備をしようとして結局やれない人、自分にはできっこないと始めから逃避する人、段取りが上手くできない人、取り敢えず別のことをやってしまう人、聞いているようで何も聞いていない人等々。その結果、自分の奥深くにしまいこんで、二度と日の目を見ないブラックホール状態になります。呆れられるならまだしも、業務や信頼関係に大きな穴をあけてしまうことも多々あります。そういうのって意外と巧妙に隠れていて、後の祭りになってしまうので余計に悲惨です。

溜めない人

その逆に溜めない人がいます。そういう人は、依頼をさっさと片付けて本来の自分のやることに戻ります。いつまでも溜めておくのは気持ち悪いからと、自分の作業を一旦止めて割り込ませて終わらせます。ただ、パッパッてできる簡単な依頼ならよいのですが、面倒な場合はどうでしょう。そういう時はとりあえず手を付けて、自分の作業との段取りを調整しながら、複線的に片付けていきます。何よりも溜める人と大きく違うのは、その進捗状況について相手と話すことではないでしょうか。すぐにはできないならできないと中間報告をすることで、自分自身にも今の状況の振り返りになります。

満点を目指さない

依頼を溜めてしまう人の一番の理由は、ちゃんとやらなくっちゃっていうことではないでしょうか。確かに会社の業務でミスは命取りになることがあります。ただ、会社って一人ではありません。会社を背負い込むぐらいの意気込みは立派ですが、現実にはできません。ですから自分だけ100点を目指すのを止めませんか。何なら60点でも良いのではないでしょうか。100点取って頭をなでなでされたい気持ちは分からないではないけど、それを目指すから最初の一歩が踏み出せない。もっとチャランポランで良しとしましょう。

まずは手を付ける

「しっかりと準備してから始めよう」という人は、それはいつまでも始めない言い訳にしていませんか。取り敢えず、一部でもいいから手を付けてみませんか。分からなければ、やりながら考えれば良いじゃないですか。

段取りが上手くてきなかったり、とりあえず別のことやってしまうなんて方は、必要な作業を書き出してみてはどうでしょうか。書き出したことは必要なことの全てではないのかもしけれませんが、まずはその中の一つに手を付けることで動き出します。ゼロ百ではなく、まず1でも良い。ゼロから1って近くて遠いけど、1になれば、すくに2や10や50になっていくものです。

コミュニケーションが大切

自分には能力がないって尻込みして手を付けない人がいますが、貴方はできると思われたから依頼されたのです。仮に本当にそうだとしても、それを相手とコミュニケーションを取らなければ、一方的に依頼を抱え込むだけになってしまいます。コミュニケーションって双方向です。また、依頼を聞いたフリして聞き流す方がいますが、そういうのはある意味最も厄介かもしれません。家庭内なら許されるのかもしれませんが、相手はあなたを信頼してに依頼を預けたと思っているのです。そうやって信頼を裏切るようにコミュニケーションを疎かにしていると、やがてブーメランのように大きなしっぺ返しが来ることを覚悟しましょう、それもかなりの打撃のはずですから。

本当に大事なことを見失わない

ただ、お願いする相手はあなたの都合などは考えていないことが多いと思います。実は頼み事自体、それこそ味噌クソかもしれません。ですから、お願いされたからといって、全てが大事なことではありません。何でもかんでも頼まれたからと言って、片っ端から応える必要はありません。取捨選択が大切です。そうでなければ、こちらがパンクしてしまいます。今本当に大切なことは何か、相手にとって、自分にとって、組織にとって、家族にとって・・・。それをきちんと見極め、優先順位をつけて取り掛からなければいけません、他人のために、自分にとって本当に大事な事を見失わない。そして、受けたなら溜め込まないでサッサと片付ける。お願いを溜め込んでおいて良かったね、ってことはありませんので。