青空と青い海、心おもむくまま

ご訪問ありがとうございます。このブログのきっかけは、もともと会社時代に社員の皆さんにお送りしていたレターでした。会社や人生の様々な悩みに対するヒントや、楽しく働くきっかけになればと書いていたものです。退職後も引き続き、日々の思いを書かせて頂いております。何か少しでも参考になれば幸いです。また、皆さんからご意見も頂ければ嬉しいので、よろしくお願い致します。

いろいろなものの見方(2024/4/22)

東京の桜はすっかり散ってしまい、木々が若草色に芽吹き始めています。つつじも遅れてはなるものかと、GW前にも関わらず一斉に咲き始めており、春本番モードです。まもなくGWをむかえますが、新しく社会にでられた皆さん、お元気ですか。

退職代行会社

最近のニュースでみかけた退職代行会社なるもの、早い人は入社数日で代行を通じて退職するとのこと。新しい職場を楽しみにしてきた新入生にとっても、準備をしてきた会社側にとっても、どちらにも大変不幸なことです。退職の理由はいろいろで「自分の希望と業務が異なった、会社が話と違った、自分の考えるキャリアプランと異なる配属がされた」等々。昭和のお父さんたちからすればちょっと待ってですが、本人たちにとっては必死で、真っ青になっている事が想像されます。数万円程度で代行してくれるようですが、使う理由は「上司に遺留されて説得されるから、理由をうまく説明できないから、即日すぐに辞めたいから」とのこと。自分の思い描いた第一歩を踏み間違えた、お金がかかってもしょうがない、足跡をさっさと消してしまおう、ということでしょうか。

偏る国際世論

話は変わって中東問題です。まだ予断は許しませんが、イスラエルイラン問題は一触即発から自制の動きが見え始めています。事の発端となった、シリアのイラン大使館へのイスラエルによる攻撃に対し、国連から非難の声は上がらず、イランのイスラエル本土への攻撃については、日本を含め西側諸国が一斉に非難の声を上げました。45年前のイスラム革命に端を発している両国の争いですが、最近の国際世論は一方への片寄りがひどすぎるように感じます。イスラエルのガザ侵攻など、西欧諸国がなぜここまで許すのか、黙認するのか、あまりにもバランスを欠いている、といわざるを得ません。実は国の権力争いとはこういうものであり、これまでは情報や声が外に出なかったからわからなかっただけ、なのかもしれませんが。一方的に悪だと信じきってきた相手が本当に悪だったのか、仲間だと思って信じてきた相手が本当に仲間だったのか。一方的な情報に偏ることなく、相手のことを考え、フェイクに騙されないよう、それは客観なのか主観なのか、ようく耳をかっぽじって、目を見開いて、見極めなければいけません。

一人だけではない

さて、退職代行会社を使う新入社員さん、きっとあなたは自分の気持ちに素直に従っただけ、相談した友達も嫌なら早い方がよくね?、なんてアドバイスをくれたのでしょうね。ただそれは、私たち第三者からはあまりにも自分の考えだけに依っていませんか、と感じます。自分のことだから自分中心でいいじゃん、ではないのではと。あなた一人だけなら、自分の好きにすればいい。就職は、あなたと第三者である会社との共同作業です。確かに、聞いてイメージしていた話と違ったかもしれない、ひょっとして会社が話を盛っていたのかもしれない。でも関わってしまった、というと言い方が悪いかもしれませんが、ご縁があって関わったのは紛れもない事実です。ですから、それから逃げず、相手方のことも考えなければいけないのでは、と思います。先の中東問題でもそうですが、問題が起きるということは必ず相手方がおり、その相手側にも理屈と感情がある、ということです。悪意のある会社は別として、あなたを迎え入れるために会社はかなりの準備と労力を割いているのです。

相手を思いやる気持ち

皆さんは、学生時代から友達を思いやって行動してきたと思います。では、相手が会社という組織となると違うのかしら、どうでもよいのかしら。自分の行動が相手にどう受け取られるか、イメージしてみてください。そんな電話を第三者から突然もらう会社の人たちの気持ちを…。お金を払って尻ぬぐいしてもらうことに慣れてはいけない、のではないでしょうか。確かに、後ろ向きのことだし、いろいろとぐちゃぐちゃと言われて面倒そうだし、ウザいのはわかります。でも、これからの人生、ずっとウザいことだらけ。自分の思った通りに事が進むなんてことは、ほとんどないのだから。これが思った通りにならない第一歩です。それをお金で解決したら、いつまでもそうしてしまうんじゃないかな、と心配になります。面倒だけど、責任もってやっぱり自分でしませんか。

会社の中でのキャリアプランとは

オジサン的には、入社早々の希望の職種につけなかった、キャリアプランが育たない、という理由にも違和感を感じます。自分の20代の頃を考えると、そんな具体的なキャリアプランというものはなく、漠然とした将来へのイメージだけでした。ですから、希望通りでなくとも、それも一つの経験と受け入れられました。会社という組織に属している限り、全員が希望の職にはつける訳ではないし、中には縁の下の裏方さんも必要で、誰もが大切なチームの一員です。そこを理解しましょう。今回はたまたま希望通りになったもしれないけど、次回の異動はいつかもわからないし、異動先もわからない。会社とあなたは対等ですが、ある部分では対等ではありません。それを理解したうえで会社員人生を歩まれないと、常に不満だらけになってしまいます。専門職になるにしても、いろいろ経験することで自分の厚みが増し、キャリアが積み上がっていくものだと思います。初めから、こうあらねばとガチガチに思い込まなくてもよいのではないでしょうか。

 

人はそれぞれ、もいいけれど(2024/4/17)

すっかり春めいてきました

ここのところすっかり春めいてきましたね。一昨日などは夏のような陽気でした。街中のソメイヨシノは葉桜となり、桜吹雪が盛んに舞っています。春のフィナーレを飾る八重桜が隣の家にありますが、既に大きな花を咲かせ始めています。人生の新しいスタートを切られた皆さんはもう新しい環境に慣れましたか。戸惑うことだらけでしょうが、日々を楽しんで前を向いてくださいね。

さて、世界では中東がキナ臭くなってきています。武力の応酬がエスカレートしつつあり、世界中が固唾を飲んで見守っています。お互いが長い歴史の中で自分は正しいと信じており、その周辺国も各々の立場、理屈から正しいと言っています。日本と違いディベートの国々ですから、正しいと言い続けることは大事なのでしょうね。

人はそれぞれとは

そんなニュースから連想し思い浮かんだのは、最近よく言われる「人はそれぞれ」。肯定的な言葉で使われることが多いのですが、ちょっと考えてみました。

最近の日本では個が尊重されています。人はそれぞれで、個性が大切にされます。その結果、何が正しいかという突っ込んだ議論は曖昧になりがちです。でも、誰もが皆正しいということはありません。何が正しいか、議論がぶつかり合えば、傷つく人もいるし、妥協も必要です。でも、ぶつかり合うことでこころは鍛えられます。「人はそれぞれ」と避けていては鍛えられません。特に、若いうちは正面から人と向き合うことが大切では、と思ったところです。

個性の尊重

日本では、ゆとり教育に続き、個性を伸ばす教育を受けた皆さんがZ世代と呼ばれ、社会の中核を占めています。彼らに対し、個性の尊重が最重要と「人はそれぞれ、何が正しいということはない、みんな個性なんだから」と、腫物に触るような扱いも見受けられます。会社では、労働人口の減少、働き方改革などで労働力が絶対的に不足し、若い人に何か言って辞められては困る、というのが本音です。確かに、高度成長期の24時間働けますか的な、個性よりも協調性、全員一丸となって一つの目標に向かって猪突猛進、休みなんか関係ない、そこに仕事がある限り365日24時間頑張ろう、というのはもう過去の遺物です。反対に今は、一人一人の個性を生かそう、否定よりも肯定、褒めて伸ばそう、よくできたね、さあもう少しだけ頑張ろう、無理しなくていいよ、です。何が正しいかなんて、価値観の多様化を否定するから決めつけてはいけない、一方的な押し付けはいけない、と言われます。

会社にとって正しいとは

一方、会社を例にとりますと、会社は利潤を追求する組織ですから、都度方針を決定し前に進まなければ、倒れてしまいます。各々の会社にとっての「正しい」を曖昧にはできません。「人はそれぞれ」でありません。では誰が正しいと決めますか。社長が一人で決めますか。数人の組織ならいざ知らず、数十、数百、数千人となった時、その一人の知識、経験、思考だけで決められますか。代表だからと、わかりもせずに決めれば、独善や独裁が生まれるだけです。

組織と個人の切磋琢磨

確かに、組織では最後にはトップが決定します。ただ判断に至る前に、各部署、各レベルにおいて正しいとは何か、議論を積みあげます。その段階で、組織と個人にせめぎあいが生まれます。人それぞれだからしようがない、とは避けられません。自分と折り合わなくても、最後には自分を曲げなくてはいけません。まさに共同体と個人の切磋琢磨です。でも、そんな面倒や没個性はイヤとなった時、転職すごろくが始まります。確かに、自分の考える正しいを会社が理解してくれない事を受け入れがたい、という気持ちは理解できます。とはいえ、そんなあなたを丸ごと受けとめてくれる組織もそうそうはありません。

傷つくことで鍛えられる

組織の「正しい」は、そういう共同作業を通して醸成されていきます。その方法論や過程にはいろいろな問題はあるかもしれません。そして、その過程で個人が否定され、傷つけられることも避けられないかもしれません。ひょっとすると、ボロボロになってしまうかもしれません。ですから、傷つくことを避け「人はそれぞれなので個性を大事に」と、衝突しない生き方もあると思います。ただ、それでは心が鍛えられないのではないでしょうか。確かに傷は痛いけど成長します。筋肉だって鍛えることで細かい傷がつき、新たな筋肉が育つのです。年をとっても、身体を鍛えれば筋肉がつきます。ただ、こころの筋肉はどうでしょうか。まだ若くピュアなこころは、若いうちに鍛えないと、将来フニャフニャの芯無しになってしまいます。年を取ってから新たにこころを鍛えることは、長年染み付いたものが邪魔をして容易ではないのです。

こころの筋肉を鍛える

ですから、若い時にこころの筋肉を鍛えた方がよいと思います。いつも自分が正しいとは限りません、何が正しいか議論の結果、妥協することは逃避ではないし、自分を変えることも恥ではありません。それより、若いうちから「人はそれぞれだから」と、議論しないのはもったいない。柳のようにしなやかなこころを目指しませんか。

思いを伝えるのはむずかしい(2024/4/5)

今年の春は

どうやら花粉のピークも過ぎたようで、ここのところ、毎朝の鼻水とくしゃみもだいぶ減ってきました。とはいえ、まだまだムズムズし、目も痒い。今日の天気予報では東京地方の桜は満開ということですが、東京の南のはずれに位置する我が家の周りは、まだ六分七分ぐらいの感じです。ここのところスカッとしない曇り空に桜は白っぽく映り、なんだか今一つパッとしない感じの春です。

思いを伝えるむずかしさを感じました

今週の静岡県知事の辞任と、高等裁判所判事の罷免のニュースを聞き、思いの伝え方の難しさを改めて感じました。普段から、連れ合いには「ちゃんと言わなければわからない」と注意されている私です。一つのことを正確に理解してもらうためには、どれだけ丁寧に言葉を添えなければいけないか。黙っていても思いは伝わりません。理解を得るための前準備の大切さ。さらに、自分の発言に対して、大人としてちゃんと責任が取れるよう伝えなければいけない。そんなことを考えさせられました。

 

失言と老害

4/2に静岡県知事が辞意を表明しました。ようやくというべきか、とうとうというべきか、県民の皆さんは何となくホッとしているのでは、と想像に難くありません。直接の原因かどうかわかりませんが、県庁の入庁式の発言に端を発しているのは間違いないようです。辞任を表明した記者会見では、あれは自分の非ではなく、切り取った報道のせいなどと、ご自分の発言に謝罪や撤回はされませんでした。ご本人の意図した通りに受け取られなかった、ということですが、誰が聞いても職業差別と受け取られる言い方でした。県のトップとして、新しく仲間になった方々を積極的に鼓舞しなければいけない、という思いがあったことは想像できます。でもはっきり言って、言い方を間違っています。それを平気な顔して認めず、別なところに原因を求めました。他人事とは思えない、老害の典型です。それを本人は気が付かない、周りの誰も教えてくれない、まさに老いたる裸の王様です。・・・自分の思いを正確に他人に伝えることの難しさ、加えて老害、ほんとに痛々しく拝見しました。

一つ言ってわかるわけない

そもそも、一つ言ったら一つ伝わる、なんてゆめゆめ思ってはいけません。一つ伝えたかったら、どれだけ言うか、ぐらいです。夫婦など典型ですが、何十年一緒にいたのだから阿吽の呼吸だ、言わなくてもわかるだろう、なんて甘えてはいけません。というか、誤解してはいけません。年を重ねたからこそ、むしろ昔より丁寧に、思いを伝えることが大切です。何年も経って、いつまでも昔と同じではないのです。それは、会社や社会生活においても同じことです。だんだん偉くなり、別に言わなくもわかるだろう、昔言ったはずだ。そんな裸の王様にだけは決してなりませんように。

貝になってはいけない

それでは、余計なことは言わない方が良い、のでしょうか。人間は考える葦、です。その考えを、何らかの形で発信しなければ伝わりません。人間は「人のあいだ」と書きます。たった一人で孤島で生きているなら関係ないでしょうが、人は人のあいだで必ず誰かと関わり生きています。ですから、自分の思いは発信しなければ伝わりません。伝わらなければ関係は築けません。リーダーになれば、周りは考えを聞きたがります。それを、誤解を恐れて発信しない、というのは本末転倒です。間違って伝わって欲しくないのなら、事前に下調べをする、原稿を作っておく、話す練習をすればいい。そんなの阿保らしいかしら。面倒ですが、相手に正確に思いを伝えるということは、それだけ難しいことだと思います。丁寧に丁寧に、誤解を恐れずに、こんなのわかっているだろうではなく、難しい横文字や身内用語はきちんと噛み砕き、何度も何度も、繰り返し繰り返し、・・・

期待に水差すもの

4/3、高等裁判所の判事がSNSへの不適切投稿で罷免されました。退任意思を示した間際の罷免ということもあり、処分の多寡を巡って喧々諤々の議論が起こっています。量刑については専門家に任せるとして、この件は思いの伝え方に問題がありました。裁判官という公的な立場にありながら、私的に事件にかかる思いを発信。その内容は不適切であったとご本人も認め、「公正無私な裁判官」に期待する国民の思いに水差すもの、と判決されました。社会人が自分の思いをどう伝えるか、ということが提起されています。

思いは責任をもって話す

思いを伝えたいからと、自由奔放に好き勝手に発信して良いでしょうか。幼子ならいざしらず、大人は人との関係において社会性というものが前提であり必須です。社会性とは、自分できちんと責任を果たせる範囲で、発言しなければいけないということです。言論の自由は社会性の中で存在します。無責任で無分別な発言は、大人として長年積み上げたものを一瞬にして消し去ってしまいます。だからこそ、一思いに一気に頭に浮かんだことを話すのではなく、丁寧に丁寧に噛んで含めるように話す。そうすることで、自分の責任の範疇で話すことができます。私のようなせっかちにはちと大変ですが、これも修行と考えて頑張りましょう。

人と比べない(2024/3/29)

春到来

今日は、いよいよ本格的に春めいてきそうな予感がします。3/29の午前中、神奈川県は台風のような横なぐりの雨と風でしたが、午後になり青空と暖かな南風に変わり、小鳥たちも一斉にさえずり始め、外猫もようやく遅い朝ごはんにありつけました。

さて、来週から四月に入ります。新入生、新入社員の季節です。私が、こういうものを書き始めてもう六回目の春となります。春の度に新入社員に言葉を贈ってきました。ありきたりかもしれませんが、また今年もお贈りさせて頂きたいと思います。

人と比べない

新しく学校や社会に出る皆さんたちにお贈りしたいのは、「人と比べない」というシンプルな言葉です。自分は自分、人は人、比べても意味はありません。いちいち比べて悩むくらいなら、自分に集中しよう。結果は自ずとついてきます。長い人生の中、プラスとマイナスの帳尻は必ず合ってきます。ですから、目先に焦らず、今は自分に集中しましょう。

比べたくなるけど

新しい環境には、いろいろな人がいます。一緒に入った仲間も知らない人ばかりですし、諸先輩方も既に鎮座しています。まるで未知の環境です。授業も仕事も、すべて新しいことばかりです。そんな環境に一人置かれて舞い上がっている自分がいます。でも、それはしようがないことです。実は平気そうな様子の周りも同じなのです。自分はもう少しできると思っていたのに、全然わからない、できない、と焦って気持ちがはやるばかり。一方、隣の新しい友達たちは簡単そうにこなして、良い評価や給料を得ています。えっどうしよう…自分と比べるとあの人は、と自分を基準に周りの人を査定している自分がいます。

理由を探した結果

自分と他人を比べた結果、そもそも学歴が違う、業務が違う、性別が違う、性格が違うとか、とにかく自分が納得できる理由を探します。そして、とにかく納得して、その日は終わります。でも、また次の日、同じでなくなると別の理由を探します。これはエンドレスな作業です。エンドレスで出口がありません。蟻地獄のように、負のスパイラルをぐるぐると下っていくだけです。その間の心の中の葛藤はいかばかりか。心がグルグルして、とてつもなく膨大な時間とエネルギーを使うことになります。

そもそも人は皆違うもの

でも、その長いモヤモヤの結果、得られるものは多くありません。その日暮らしのような、少しの慰めが得られるだけです。それはそうです。そもそも、人は一人一人違うものなのですから。生まれも育ちも環境も、やってきたこと、経験してきたこと、勉強してきたこと、とにかくものの見事に全てにおいて異なります。それが、たまたま同じクラスや仕事場に集まっただけです。だから、違っていて当たり前です。なのに、なぜ比べようとするのですか。比べる意味はありますか。そもそも自分の知っていることだけで比較なんてできますか。どこまであなたは知っているのでしょう。ただ、自分が安心したいから同じでいたいだけ、なのではないですか。

自分に集中する

できない比較を一生懸命にするより、自分自身に集中しませんか。モヤっと無駄な時間を使わないで、自分のために使ってはどうですか。誰でも始めのうちは勉強も仕事もわからない事ばかりです。とにかく自分に集中して目の前のことに取り組みませんか。やってもいないし学んでもいないのに、なんだか難しそう、なんだか地味そう、つまらなそう、と食わず嫌いをしていませんか。各々が置かれた場所で自分に集中し、一歩でも前に踏み出してみることが大切です。かじってみれば、意外に面白い、楽しいかもしれません。人の評判や人の目を気にして、やってもいない架空の比較をするのをやめましょう。

自分のために生きる

カッコ悪いとか、ダサいとか、人の目が気になりますか。逆に言うと、何事もカッコよくスマートに新しいことが得られますか。皆さんはスーパーマンですか…。自分の人生は、自分のためにあります。人にカッコいいと言ってもらうためだけの人生ではない。仮にカッコいいと言われれば、誰しも嬉しいです。でも、それだけです。そのあとには何も残りません。それより、自分の人生を自分のために一生懸命に生きた方が良いと思います。

時間は等しく過ぎる

自分と他人を比べるのと、自分に集中するのとで、どちらが時間が経つのが早いと思いますか。時間は誰にも公平にあります。でも、どう使うかで長い人生は変わってきます。比べてばかりいると時間はなかなか経ちませんが、自分に集中していると、あっという間に過ぎてしまいます。時間が思ったように過ぎないと、何だか重く感じます。そうすると、重い時間は嫌、と職を変えるようになります。変えても時間が重ければ、また変えることになり、自分に残るものが何もありません。一方、自分に集中すると時間はあっという間に経ち、さらに本当にここが自分に合っているか否かよくみえてきます。

人生の帳尻

一生懸命に生きていれば、人生の帳尻は合ってくるものです。それは数か月単位かもしれないし、数年いや十年単位かもしれません。まだまだ先かもしれませんが、いずれ必ず帳尻は合ってきます。それを信じて、周りをキョロキョロせず、自分に集中しましょう。ウサギとカメのごとく、きっと報われます。

ドンマイ、評価なんて気にしない(2024/3/20)

花粉の時期となりました

ここのところ、三寒四温を繰り返しながらだいぶ春めいてきております。おかげで花粉の飛び散る量も半端なく、せっかくお天気が良くても、外に出るのをためらうほどです。コロナ以前通勤時には、朝に薬を飲み効き始めるまで、鼻の穴にテッシュを詰め込んで、マスクで見えないようにして電車に乗っていました。なんせ、下を向くと本人の意思に関係なく、ツッツーと鼻水が勝手に垂れてしまうのですから。今朝も、夢の中でいきなりくしゃみが出て、その拍子にツツーとお水が枕に垂れたのをきっかけに起きてしまいました。せっかくの春に、きれいなお花ではなくてお鼻の話から入ってしまい、申し訳ありません。

落ちました!

さて、ちょっと前に書きました、人生数十年ぶりに面接を受けた話の後日談です。結果は見事に不採用!でした。「今回は応募多数につき・・・」と、休日の夜にお電話を頂きました。当たり前かもしれませんが、短期バイトでも面談者自ら休日の夜に連絡してくれたことに、「そうなんだあ」と妙に感心しました。連れ合いからは、「あなたはこれまでこういう目に遭ったことがないから」と言われてしまいましたが、確かにそうかもしれません。失礼ながら大したアルバイトではないのですが、理由はどうであれ、落ちるという評価を頂いたことは、確かにショックですよね。おおげさに捉えれば、自分の全てを否定されたような気になるものです。たぶん、若くて真面目な人ほど、こういうことをきっかけに人間や世の中への不信に陥っていくこともあるのだろうな、と考えてしまいました。幸いこちとら人生経験それなりで、「ご縁がございませんでした」と、あっさりと受け入れましたのでご心配なく?。

評価と組織

そこで、今回は評価ということについて書きたいと思います。私も会社員の端くれの頃、常に何らかの評価を受け続けました。ある時は、自分の中で人生の羅針盤として励みにも使いましたし、目標として一喜一憂した時期もありました。よくも悪くもいつも「評価」というものが付いて回ってきました。よくよく考えてみると、組織の中の評価というシステムは、ものすごく巧妙に考えられた感心のシステムです。評価は必ずサラリー=お金に連動しており、お金という人参をブラ下げられ、一人一人の社員は頑張り続けさせられます。お金を得るためには評価を上げなければいけないので、人を蹴落としても評価を得るように仕向けられます。そもそも人間には、「頑張った自分を褒めて欲しい」という承認欲求がありますから、「ヨシヨシ頑張ったね、それではご褒美に少しお金をあげよう」と言って、飼い慣らしていく?ことが可能になります。それに慣らされた私たちは、評価を得ることが当たり前となり、評価を得るためには組織に尽くすという、組織にとっては願ってもない好循環となっている訳です。何という巧妙さでしょうか。

評価のための作業

しかしながら、そもそも会社というものは年度単位の決算であり、短期間にぶつ切りして業績を評価します。その中の社員たちは、種をまく人、苦労して育てる人、それを刈り取る人と様々な仕事をし、さらに人事の流動性というの名のもとに不作為に異動をしています。そんな中、年度より短い期間の中で、個人の公平な評価など本当に難しいものです。結果なのか、過程なのか、能力なのか、そこに好き嫌いはないのか…会社は、目標管理制度や人事面談、360゜評価など、あの手この手で評価そのものを正当化?しようと試みます。評価し合うための資料を作成する全従業員の作業量は膨大なものですが、その結果得られるものは果たしてどれほどのものでしょうか。何十年間も評価され、また評価し続けてきた自分ですが、改めて考えてみると徒労感や虚しさを覚えます。組織に人を繋ぎ止めるために本当に必要な作業だったのかしら…。お金というものは大事なものでありながら、ある意味で本当に面倒で恐ろしいものだと実感しています。

承認欲求を認め合う

一方、人間が持っている承認欲求についてはどうでしょうか。そんなもの、他人に認めてもらわなくても自分だけが納得すればよいじゃないか、という意見もあるかもしれません。ただ、赤ん坊から老人までどんな人間であっても、自分が頑張ったことを認めてもらいたいと思っています。いわんや、犬や動物ですら承認欲求は持っています。そんな根源的な気持ちを、我慢したり、させたりする必要はないのではないでしょうか。もっと素直に「よく頑張ったね」と認め合い、褒め合えばよいのでは。日本人はシャイで、声に出して相手を褒めることが苦手なのかもしれませんが、褒めることにお金はかかりません。そして、人間はほめられると気持ち良くなり、気分が上がります。ですから、どんどん声に出して褒め合いましょう。そこにお金を結びつけるから、ややこしくなるのではないかしら、と私は思います。

人間は人間を評価はできない

とはいえ、生きていくのにお金は必要です。組織の中における「評価=お金」は決して無くなりません。では、どうしたらよいのでしょうか。一番誤解して欲しくないのは、「組織の中での評価は人間そのものの評価ではない」ということ。改めて書くと、そんなの当たり前と感じますが、いざ実際に自分が低評価を受けると、やはり自分自身の全人格、過去の業績や能力まで全てを否定されたように感じてしまいます。でも、そんな評価はお金を払うための理屈付けでしかなく、仕事はあなたの人生のほんの一部でしかありません。気持ちを切り替えましょう。そもそも人が人を公平に客観的に評価なんてできるものでしょうか。そんなものに一喜一憂しない。評価のために全人生を捧げない、と言った方が良いでしょうか。そして、年令や地位に関係なく、組織人である前に一人の人間として、頑張った人を褒めましょう。年下だって年上を褒めていけないなんて法はありませんから。(ただ、褒め方や言葉使いには注意しましょうね。)

お金だけに縛られない世界、褒め合ってお互いに気分が上がるような世界、そんな世界に少し生きてみませんか。

ドンマイ、評価なんか気にしない。

少しぐらいでわかった気にならない(2024/3/8)

分かったような気になっている

人間というものは悲しいもので、自分がその立場におかれてみないと本当の大変さはわからないようです。何となくわかったような気になっているのは、本やネットで知識として知っているだけなのではないでしょうか。仮に自分が昔経験したことであっても、のど元過ぎれば元の木阿弥、忘れ去ってしまっているようです。本当の意味で当事者になるのはどういうことか、しっかりと向き合って腰を据えて取り組まねば、たぶんいつまでたってもわからないのではないでしょうか。

どれだけ真剣に向き合ってきたか

たぶん誰しもが、その時その時、まじめに人生に向き合って生きてきた、と思っています。ただ果たして、自分と同じように周りに対しても、どれだけ真剣に向き合ってきたのでしょうか。自分に関係する周囲に対し、当事者として、また仲間として、どこまで真剣に意識を向けてきましたか。何となく表面的に外形的に、若しくは相手に対する遠慮から、わかっているような風のふりをして付き合ってきただけではないでしょうか。実は、それがとても失礼なことだった、ということに今更ながらに気が付き、愕然としました。向き合ったふりからの無理解。適当に相槌を打つことほど、相手を馬鹿にしていたことはありません。後悔は猿でもできます、しっかり反省しましょう。今からでも遅くはない。正面から向かいあえば、時間はかかっても取り戻すことはできます。過去を取り戻す、とまではいかないかもしれませんが、決してあきらめる必要はありません。いわんや、「年だから」と諦める必要もありません。

少しぐらいかじったぐらいで

一方世の中を見てみると、自分でやりもしないのに、データや他人の評判だけでわかったように気になり、それで物事を決めつけてしまうことがまかり通っている恐ろしさに気が付きます。自分で実際に嫌な思いをしたり、苦労したこともないのに、外目やウワサばかりを気にする風潮。頭の中だけで作ったような有形、無形のサービスが、見た目や聞こえが良い、というだけで評価される今日この頃。確かに人間は有限であり、すべてを自分で経験して自分のものにしてから、というのは無理でしょう。でも、すこしぐらいかじったぐらいで、分かった気やできた気になってはいけません。これは自戒を込めて。

それはあなたの実力ですか

何の因果か、株価が4万円を超えている今日この頃です。そんな中で、例えばマンションが億ションとして高く売れているのは、商品の実力ではなく、土地代や建築費が高くなっただけかもしれません。また、ホテルが高い料金が取れるのは、サービスが良いからではなく、たまたまインバウンドが大挙したからだけかもしれません。あなたの会社の株価が上がったのは、本当に自分たちの実力でしょうか。本来、社会経済が悪くなった時でも評価され続けるのが真の商品であり、サービスです。勝手な思い込みや観念ではなく、本当に使う人の目線で商品を作り込み、そして喜ばれるサービスを磨き続けていますか。

不断通りの生活を続ける

それは、私生活でも同じです。普段から絶え間なく途切れることなく、地に足の着いた生活を続けているからこそ、いざという時も揺るぎない家庭が築けると思います。(因みに、「普段」は「不断」とも書きます。) たまにちょっと触ってみたぐらいで、やった気、分かった気、できた気になってはいけません。やり続けること、継続するということは、賽の河原の石積み似ているかもしれません。積んでも積んでも崩れる、やっと積みあがったら、今度は雨や風、雪に崩される、そうして諦めないで積み続けることで、知らぬ間に堅牢な塔になっている。…今日が終わったと思って安堵した瞬間、また同じことが次の瞬間から始まります。途切れることのない繰り返しです。それは決して徒労ではありません。その繰り返しこそが、人間というものの営みなんだろうなと思います。年齢を重ねてもそれは同じ。人は動ける限りアクセルを踏み続け、前に進み続けることが大切なんだと、最近思うのです。(ちなみに、老人の暴走車の話ではございません、どなたもベタ踏みは禁止です。)

 

たまには客観視しよう(2024/3/1)

一昨日、外出先でいろいろなことを経験させて頂き、なるほどなぁ、といろいろ気づきが得られた日でした。そんな出来事について、つらつらと書かせてもらいます。

なんと採用面接を

ひとつ目、なんと40年ぶりに採用面接を受けました。ボランティアをさせて頂いている美術館で、次回の企画展の整理誘導アルバイトを募集していましたので、老骨でもお手伝いできないか、と受けさせて頂きました。ついこの間まで、面接して選ぶ側にいた人が、面接される側になりました。面接官の方も最初は「えっ」って感じで、なんとなくドギマギした感じで始まりました。面接を受けてみて、過去の自分が何気なく質問していたことが聞かれる側には意外と耳に残っていたり、逆に伝えておかなければならない、とお話したつもりが、話し方やタイミングによっては相手には伝わっていない、ということなど、新鮮な発見が多々ありました。入社面接は、たいていは1時間もない中での一期一会の出会いの場です。受験される方にもいろいろいらっしゃって、腰掛けもいれば、死ぬ気の方もいるでしょう。それでも、面接する側としては、どんな理由があるにせよ来てくれたからのだから、もっと真剣に対峙しなければいけなかった、と反省しました。齟齬や誤解が生じないよう、きちんと事前の準備をしなければいけなかった。なにせ面接する側は圧倒的な優位で、マウント取った状態から始まるのですから。それだけの自覚と責任をもって臨むのが礼儀というもの、と改めて強く感じました。

ギャラリートークに参加しました

もう一つ、同じように感じたことがありました。面接のあと、夜の飲み会まで時間があり、久しぶりの東京でしたので、国立近代美術館に寄ってみました。同館では、毎日ボランティアによるギャラリートークを行っており、参加してみました。説明員の一方的な説明ではない「対話による鑑賞」というやつです。私もボランティアとして同じことをやっていますので、興味津々でした。なるほど、こういうやり方もあるのか、ここはこうした方がよいのでは、と烏合の衆を必死にファシリテートするガイドさんを(同館ではそう呼んでいました)、客観的にみることができました。当事者である自分は必死にやっているため、まるで気が付かない事って結構あるのだなあ、と気が付かされたのでした。

組織に安住している自分を認める

二つ目。久しぶりの東京では、地元とは違い、スーツにネクタイ、マスク無し、とコロナ以前に戻った集団があちこちを闊歩していました。徒党を組み、嬉々として相手先や社内のこと、或いは昼飯のことなどを声高に話しながら歩く白シャツ集団、テイクアウトコーヒーを片手にカッカッと颯爽と歩き去るキャリア風等々、以前のあるあるがあちこちにありました。そんな皆さんをみて、最初は何となく眩しくみえたのですが、それはどうやら誤解で、単に午後の太陽がまぶしかっただけのようでした。ようく考えてみると、会社員という人種は皆同じような制服を着ていることで、その集団の一員として証明され、そこに安住できているわけです。スーツしかり、作業着しかり、Tシャツ+チノパンしかりです。会社という組織の中にいるときはわかりませんでしたが、外に出てみると、その安楽さがわかります。極端に言えば、一定の時間を提供し、同じ行動、同じ姿をしてさえいれば、組織が守ってくれました。いろいろと不満もありましたが、交通費やボールペンから始まり全ての経費、さらには社内の飲み会のお金まで、あらゆる利便を享受できていました。なんて素敵なのでしょうか。こうして日本は栄えてきたのですね。今組織にいる方は、せいぜいそのメリットを許容受したらよいと思います。

埒外に真剣に目を向ける

ただ言いたのは、自分たちの枠外、範疇の外にも関心をもってください、ということ。特に、生活に密着する住宅や、余暇に関連するサービスのお仕事では、組織の論理や理屈はお客様に通じません。組織人のお客様に通じても、組織に所属していない方には一切理解できません。当時、そんなことはわかっていたつもりでしたが、どこまで真剣に自分が埒外に向き合っていたのか、今思うと疑問です。「相手に思いを馳せたサービスを」なんて言葉は軽々にはできない、ということを改めて考えさせられた日でした。組織には組織の不満はあるかもしれませんが、外から見た貴方はいかに恵まれているか、または恵まれているようにみえるか、ようく考えてみて欲しいな、と思いました。

自分の立ち位置や立ち姿を受け入れよう

三つ目。その夜は、昔勤めていた部署や関係会社等でお世話になった皆さんとの懇親会でした。かってはいろいろと文句を言い合った相手ですが、利害関係の無くなった今、すべてが良き楽しい思い出です。かっての自分にはあまり余裕がありませんでしたので、どうしても周りの皆さんに無理を言ってきたように思います。むしろ無理を通すのが仕事なんだから、みたいなところもあり、決して良くは思われていないだろうし、そういう緊張関係であっていい、社内でべたつく必要はない、と考えるタイプの人間でした。ですが、酒の席とはいえいろいろと聞かせて頂く昔の自分に、肯定的なお話を聞かされると本当にうれしくなります。半分はヨイショかもしれませんが、もっとこうしておけばよかった、ああしておけばよかったと、今更ながら反省したりもしました。一番の反省は、自分の客観的な立ち位置、立ち姿というものを、もっと途中で素直に謙虚に聞いておけば、仕事や人生の展開も違ったのではないか、ということ。あんまり長いこと自分はこうだと思い込むのもいけませんな、たまには振り返りましょう。

こうやって、たまには自分自身や置かれた立場を客観視することが、次への成長ステップにつながるのだなあ、と感じた一日でした。皆さんもちょっと気を付けてくださいね。