青空と青い海、心おもむくまま

ご訪問ありがとうございます。このブログのきっかけは、もともと会社時代に社員の皆さんにお送りしていたレターでした。会社や人生の様々な悩みに対するヒントや、楽しく働くきっかけになればと書いていたものです。退職後も引き続き、日々の思いを書かせて頂いております。何か少しでも参考になれば幸いです。また、皆さんからご意見も頂ければ嬉しいので、よろしくお願い致します。

ドンマイ、評価なんて気にしない(2024/3/20)

花粉の時期となりました

ここのところ、三寒四温を繰り返しながらだいぶ春めいてきております。おかげで花粉の飛び散る量も半端なく、せっかくお天気が良くても、外に出るのをためらうほどです。コロナ以前通勤時には、朝に薬を飲み効き始めるまで、鼻の穴にテッシュを詰め込んで、マスクで見えないようにして電車に乗っていました。なんせ、下を向くと本人の意思に関係なく、ツッツーと鼻水が勝手に垂れてしまうのですから。今朝も、夢の中でいきなりくしゃみが出て、その拍子にツツーとお水が枕に垂れたのをきっかけに起きてしまいました。せっかくの春に、きれいなお花ではなくてお鼻の話から入ってしまい、申し訳ありません。

落ちました!

さて、ちょっと前に書きました、人生数十年ぶりに面接を受けた話の後日談です。結果は見事に不採用!でした。「今回は応募多数につき・・・」と、休日の夜にお電話を頂きました。当たり前かもしれませんが、短期バイトでも面談者自ら休日の夜に連絡してくれたことに、「そうなんだあ」と妙に感心しました。連れ合いからは、「あなたはこれまでこういう目に遭ったことがないから」と言われてしまいましたが、確かにそうかもしれません。失礼ながら大したアルバイトではないのですが、理由はどうであれ、落ちるという評価を頂いたことは、確かにショックですよね。おおげさに捉えれば、自分の全てを否定されたような気になるものです。たぶん、若くて真面目な人ほど、こういうことをきっかけに人間や世の中への不信に陥っていくこともあるのだろうな、と考えてしまいました。幸いこちとら人生経験それなりで、「ご縁がございませんでした」と、あっさりと受け入れましたのでご心配なく?。

評価と組織

そこで、今回は評価ということについて書きたいと思います。私も会社員の端くれの頃、常に何らかの評価を受け続けました。ある時は、自分の中で人生の羅針盤として励みにも使いましたし、目標として一喜一憂した時期もありました。よくも悪くもいつも「評価」というものが付いて回ってきました。よくよく考えてみると、組織の中の評価というシステムは、ものすごく巧妙に考えられた感心のシステムです。評価は必ずサラリー=お金に連動しており、お金という人参をブラ下げられ、一人一人の社員は頑張り続けさせられます。お金を得るためには評価を上げなければいけないので、人を蹴落としても評価を得るように仕向けられます。そもそも人間には、「頑張った自分を褒めて欲しい」という承認欲求がありますから、「ヨシヨシ頑張ったね、それではご褒美に少しお金をあげよう」と言って、飼い慣らしていく?ことが可能になります。それに慣らされた私たちは、評価を得ることが当たり前となり、評価を得るためには組織に尽くすという、組織にとっては願ってもない好循環となっている訳です。何という巧妙さでしょうか。

評価のための作業

しかしながら、そもそも会社というものは年度単位の決算であり、短期間にぶつ切りして業績を評価します。その中の社員たちは、種をまく人、苦労して育てる人、それを刈り取る人と様々な仕事をし、さらに人事の流動性というの名のもとに不作為に異動をしています。そんな中、年度より短い期間の中で、個人の公平な評価など本当に難しいものです。結果なのか、過程なのか、能力なのか、そこに好き嫌いはないのか…会社は、目標管理制度や人事面談、360゜評価など、あの手この手で評価そのものを正当化?しようと試みます。評価し合うための資料を作成する全従業員の作業量は膨大なものですが、その結果得られるものは果たしてどれほどのものでしょうか。何十年間も評価され、また評価し続けてきた自分ですが、改めて考えてみると徒労感や虚しさを覚えます。組織に人を繋ぎ止めるために本当に必要な作業だったのかしら…。お金というものは大事なものでありながら、ある意味で本当に面倒で恐ろしいものだと実感しています。

承認欲求を認め合う

一方、人間が持っている承認欲求についてはどうでしょうか。そんなもの、他人に認めてもらわなくても自分だけが納得すればよいじゃないか、という意見もあるかもしれません。ただ、赤ん坊から老人までどんな人間であっても、自分が頑張ったことを認めてもらいたいと思っています。いわんや、犬や動物ですら承認欲求は持っています。そんな根源的な気持ちを、我慢したり、させたりする必要はないのではないでしょうか。もっと素直に「よく頑張ったね」と認め合い、褒め合えばよいのでは。日本人はシャイで、声に出して相手を褒めることが苦手なのかもしれませんが、褒めることにお金はかかりません。そして、人間はほめられると気持ち良くなり、気分が上がります。ですから、どんどん声に出して褒め合いましょう。そこにお金を結びつけるから、ややこしくなるのではないかしら、と私は思います。

人間は人間を評価はできない

とはいえ、生きていくのにお金は必要です。組織の中における「評価=お金」は決して無くなりません。では、どうしたらよいのでしょうか。一番誤解して欲しくないのは、「組織の中での評価は人間そのものの評価ではない」ということ。改めて書くと、そんなの当たり前と感じますが、いざ実際に自分が低評価を受けると、やはり自分自身の全人格、過去の業績や能力まで全てを否定されたように感じてしまいます。でも、そんな評価はお金を払うための理屈付けでしかなく、仕事はあなたの人生のほんの一部でしかありません。気持ちを切り替えましょう。そもそも人が人を公平に客観的に評価なんてできるものでしょうか。そんなものに一喜一憂しない。評価のために全人生を捧げない、と言った方が良いでしょうか。そして、年令や地位に関係なく、組織人である前に一人の人間として、頑張った人を褒めましょう。年下だって年上を褒めていけないなんて法はありませんから。(ただ、褒め方や言葉使いには注意しましょうね。)

お金だけに縛られない世界、褒め合ってお互いに気分が上がるような世界、そんな世界に少し生きてみませんか。

ドンマイ、評価なんか気にしない。