今月は、「最後まで」というお題で、少々硬く語らせて頂きたいと思います。
缶ビールやたばこの吸い殻の投げ捨てをやめたり、ペットボトルのラベルはがしなど、社会の一員として最低限の自己責任を果たしましょう。行動には責任が伴うものだということをしっかりと認識しましょう。
カロリーゼロの缶ビール
先日、明け方の涼しい時間帯に散歩をしていたところ、とある民家のきれいに刈り込まれた垣根の上に、クシャってされたカロリーゼロビールの空き缶が捨てられていました。たぶん暑くてたまらなかった帰り道、家まで我慢できなくって、でも自分の健康を考えて値段の高いカロリーゼロにして、キンキンに冷えたのを買って一気に飲み干しながら帰宅したのではないかなあ。でも何でカロリーに気を使いながら、人の庭には気を使わないのかな、高いお金を出したのに用が済んだらポイって、なんか無責任じゃない、自分の行動に最後まで責任をもって欲しいなと、爽やかな朝に残念な気持ちになったことを覚えています。
白い点々
また、よくよくいつもの通り道を見廻してみると、そこかしこにタバコの吸い殻が白く点々とみえます。たばこも今じゃ一本20円も30円もしますが、その吸い殻が無造作にボイッポイッと捨てられています(フィルターの長さだけでも5円分ぐらいありそう…)。なんで、愛煙家の皆さんが「心の友」とも呼んでいる彼らに対して、最後まで面倒をみてあげないのでしょう。たまに、火が付いたままをポイッて捨てるような方もお見かけしますが、まったくもってダメダメだし、それでは愛煙家の地位も一緒に地に落ちてしまいますよ。・・・
表と裏では
ペットボトルも気になります。「SDG’sで分別収集していますので、ラベルとキャップは外して下さい」なんてお客様には分別廃棄をお願いしておきながら、なぜか職場のゴミ箱では張り紙しても誰も剥がさず、そのままポイ。せっかく喉を潤してくれたのだからリサイクルまで面倒みてあげたら、って思ってしまいます。・・・どうしてなのでしょう、どれもこれも自分には直接痛みがないからでしょうか? 自分がお金を出したのだから用が済めばポイするのも勝手、ということでしょうか。逆に、自分で買ったのだったら、ごみ箱まで持っていくとかラベルを剥がすとか、最後まで面倒みるのが自己責任というものではないのかしら。
人間と動物の違い
皆さんは、人間と動物の大きな違いは何だかご存知ですよね。一部の動物にもあるとも言われていますが、それは「社会性」です。限られた土地の中で人間同士が良好な関係性を保っていくために不可欠なのは「社会性」であり、それがために本能のままに角を突合せ傷つけ合わずに済み、人間関係の潤滑油となるのです。よく「自分一人だからいいだろう」っていう方がいますが、みんながみんなそう考えたらどうなるのでしょうか。私たちはジャングルに一人っきりなのではありません。「きっと誰かが掃除してくれるだろう」って一体誰のことでしょうか。気が付いていないかもしれませんが、この社会だったり職場だったりコミュニティに係わっているあなた自身が、既に当事者であって、その「誰か」の一人なのではないでしょうか。
社会の一員としての最低限の責務
当事者なのだから責任を果たすべき、なんて「べき論」を声高に叫ぶつもりはありません。シンプルに、社会や組織に属する一員としてすべきことを当然にするだけではないかと思います。そんなの面倒だという方は、そろそろ考え方を変えてはいかがでしょうか。人間同士円満に暮らしていくためには、個人個人が一定程度の「我」を抑え、社会が求める役割を果たしていくことが最低条件です。それが「社会」というものの前提であり、そうでないと社会性というものを維持できなくなります。それは、人間だからこその、最低限の責務といってもよいかもしれません。・・・
行動には責任が伴うもの
そもそも、捨てられたビール缶ごときで人間の責務とは何だ?と感じる方も多いと思いますが、誰もがなすべきことを「最後まで」やり遂げ、その役割を果たすからこそ、社会は回っていくのではないでしょうか。行動には必ず責任が伴うものです。
「なすべきことをやるだけ」と言えば聞こえは良いのですが、「なすべきこと」とは「やりっぱなし」ではなく、最後まで自己完結してこその「なすべきこと」です。
今、自分がなすべきことは何か、仕事でも人生でも最後までやり遂げるとはどういうことか、そんなことをもう一度じっくり考えてみたい、と思う今日この頃です。