あっという間に秋は行ってしまい、いよいよ冬がやってきました。ここのところ、朝方は一桁前半まで冷え込んでおり、ぬくぬくした布団から抜け出すのにしばしの時間と勇気がいるようになりました。その結果、朝のウォーキングからは遠ざかってしまっている今日この頃です。
さて、今回は職場の一番さんと二番さんについて考えてみたいと思います。まずは、簡単なシチュエーションを設定してみました。(話が長くなります)
昔々あるところに・・・
ある小さな職場でのことです。そこには、何年にもわたり実務を取り仕切っている方がいます。度々入れ替わる管理職の上司すら口出しできない実力者です。その方を一番さんと呼びます。とある日、人事異動に伴い一番さんと同年代の方がきました。その方を二番さんとします。
一番さんは、周りより何でも知っていて作業も早く、頼りにされています。ただ、尊敬されているというより、恐れられている感じです。一つの質問に速射砲のような回答、理解が追いつきませんが、わかりませんとも言い難い。周りと一緒に仕事をするというより、自分のペースでビシバシこなし、失敗はしません。ただ、自ら周りに業務を教えるということはほとんどありません。
二番さんは、異動後一番さんから何も教えられていません。新しい部署に関する知識はありませんが、他部署で培った経験と知識は誰にも負けない、という自負はあります。また、パソコンを使った新しいやり方も得意です。そんな二番さんには、この部署の旧態以前とした古臭いやり方は効率が悪いと感じました。早々に一番さんに改善を提案しましたが、うちはこれでやってきたのだからこれでいい、とにべもありませんでした。思い余って上司に相談しましたが、困った顔をするだけです。二番さんとしては、頑なに自分のやり方を通し、周りに教えようとしない一番さんに、大きなストレスを感じています。
一方一番さんは、いずれ自分はいなくなるのだから、もっと周りに頑張って欲しいと思っています。特に、異動してきた二番さんなど、自分の陰に隠れて楽をしているようにしかみえません。また、これまで間違いはなかったのだから今更新しいやり方に変える必要は無い、と信じています。なんだかんだと言う割に指示したことの半分もできない人ばかりで、自分の方が正確で早いため、結局は自分がやるしかないと諦めています。いつも自分が貧乏くじを引いているような気分で、ちゃんとやってよ、とこちらもストレスを抱えています。
一番さんと二番さんの上司は、二人の思いに薄々気がついていますが、あえて正面から取り上げたことはありません。むしろ、一番さんの機嫌を損ねないことが、部署として円滑な業務の推進に繋がるので、そこに気を使っています。二番さんが不満を高めないようガスを抜きつつ、根本的な解決は騙し騙し先延ばしにしています。そのうち異動するかもしれないし、そもそも自分に二人ほどの経験と知識はなく物申す資格はない、と考えています。
そんな三人を同じ部署の人たちは一歩引いて見ています。自ら業務に積極的に取り組まず、モチベーションも高くありません。何だかんだいっても、結局は一番さんが尻拭いしてくれるし、二番さんもそれなりにやってくれるので、まあいいか、とお任せモードです。・・・
プライド同士のガチンコ勝負
長い設定話となりましたが、こんな小さな池の中のような人間関係は、どこにでもある光景ではないでしょうか。書いてみれば笑い話ですが、現実には本人たちにとって毎日のことなので大変なことです。一番さんも二番さんも、これまで自分たちが積み上げてきたものを否定され、脅かされようものなら全力で排除します。相手にそんなつもりはなくとも、そうは受け取りません。なにせ培ってきたものは、自分の生きた証なのですから必死です。このやり方が唯一ベストあり、それ以外は全てNOです。それを受け入れるつもりもないし、もし変えるなら私がいなくなってからにして下さい、と明言しています。
一番であることが大事ですか
さて、これは客観的にみれば、まるでドングリの背比べのようです。確かに、ドングリにも丸や細長などあり、比べてみれば差はあります。でも、1mmでも大きいドングリの方が優秀でしょうか。これはドングリの中での比較であり、栗や柿と比べれば圧倒的に小さく、栗や柿だってスイカに比べれば圧倒的に小さい・・・当たり前のことですが、何かと比べるなら何と比べるかによって変わってきます。それでもドングリの一番が大事でしょうか。そして、そもそもそうやって比べること自体に何か意味はあるのでしょうか。
それは誰のもの?
何年も滅私奉公して積み重ねてきた経験から得た知見、それはとても大切ですし、その努力に対してプライドを持つのは当然です。ただ、そういう場を与えてもらってきたということを忘れないで下さい。たった一人で一から作り出したのではありません。諸先輩方の知恵があって、経験する場を与えられ、周りから助けてもらい、その結果ではないでしょうか。そういう意味では知見は一つの共有財産で、みんなの努力の結晶です。自分一人の成果ではありません、そこを勘違いをしてはいけないと思います。
自分じゃなければダメですか
周りに教えると自分の存在意義が失われる、と感じることも理解できます。ただ、誰しもがいつまでもいるわけではないことは、お分かりのはずです。いい加減、まだ早いとしがみつかずに、どこかでふんぎる覚悟が必要です。自分がやれば100点なのに、あいつでは60点にもならない、と心配ですか。でも、それはあなたの目線による、あなたの評価でしかない。人によっては、そんなものでも80点と評価する方もいます。あなたは、長い間閉じられた世界にいて、目線が下がって視野が狭くなっていませんか。そして、そう言い張ること自体、自分がロートル化してしまった、と気が付きませんか。外には新しい風が吹いています。最初は冷たい風かもしれないけど、思い切って飛び出す勇気を持ちませんか。
端から嫌わず一旦受け取りませんか
一方、受け取る側はそういう知見を持っている方を尊重しましょう。本で得られる知識ではない、生の経験から生み出された知見です。中途半端に斜に構えて受け取ることほど、もったいないことはありません。古臭いなと鼻で笑わず、一旦丸のまま受け入れてみてはどうですか。そして、自分の中に落とし込んでから、今流に変えてはどうでしょう。あなたがゼロリセットして、一から作り直そうとすることは、ひょっとして自己満足でしかないかもしれません。仮に、創造的破壊が必要なほど重症だとしても、一旦は受け取らないと破壊もできないのではないでしょうか。
新しい自分を見つける
きっと、一番さんも二番さんも真面目なのだと思います。だから、自分が全てと思い込み勝ちなのではないでしょうか。あなたが居なくても仕事は回ります。どうしようもない状態になるかもしれないけど、たぶん何とか回っていきます、それで良しとしましょう。あなたがその責任を背負い込む必要はない。それは上司の仕事です。そして、限りある自分の人生を仕事だけに賭けるのをやめて、もっと違うところに目を向けてみませんか。決して逃げなどではなく、少し自分に緩くなってみて別な自分を見つけてみませんか。