青空と青い海、心おもむくまま

ご訪問ありがとうございます。このブログのきっかけは、もともと会社時代に社員の皆さんにお送りしていたレターでした。会社や人生の様々な悩みに対するヒントや、楽しく働くきっかけになればと書いていたものです。退職後も引き続き、日々の思いを書かせて頂いております。何か少しでも参考になれば幸いです。また、皆さんからご意見も頂ければ嬉しいので、よろしくお願い致します。

定年して一か月経ちました(2024/1/31)

定年を迎えて一か月が経ちました。なんだかんだと出かけたり、細々とした用事を片付けたりしているうちに、あっという間に時間が経ったように感じます。ですので、まだ今のところは、ヒマで困るということはありません。今朝は、一か月が経過したところで、改めて「定年」というものについて考えてみました。

 

定年制度とは

日本の定年制度は明治時代から始まった、といわれています。当時の平均寿命が男子43才でしたが、定年制の記録のある砲兵工廠の職工の定年は55才だったとのことです。これは、死んでも働け、ということではなく、終身雇用ですよ、という意味合いの定年制でした。明治には様々な産業が勃興していたので、人手の定着を目的に設定されたようです。その後、二度の世界大戦を経て、日本は高度成長期に入ります。平均寿命も、栄養状態が良くなり医療環境も整ってきたことから年々伸びました。ところが、定年は相変わらず55才のままでした。そこには雇用側の人員整理の目的もあり、一方では労働者側の雇用保障確保の意味合いもあったようです。その後、日本の年金制度が徐々に怪しくなり、支給開始年齢が60才に引き上げられました。そこで、政府自ら定年延長の音頭を取り、1998年には60才未満の定年が禁止されました。その後の流れは皆さんご存じの通り、さらに年金の支給開始年齢の引き上げが開始され、労働者の絶対数不足もあって、政府は70才までの雇用維持を提唱するようになっています。

海外の定年は

海外の定年制の状況をみてみます。アメリカでは年齢による雇用の差別を禁止し、一部の職種を除き定年制は禁止されています。また、イギリスやドイツ、スイス等も定年制度はありません。ただし、これらの国は年金支給開始年齢を67才以上に引き上げる予定とのことです。お隣の韓国は60才、シンガポールは63才、中国の男性60才、女性は55才か50才となっており、欧米諸国とアジアとでは大きく定年年齢が異なります。

とはいえ、欧米諸国の方たちをみてわかる通り、だからといって皆がいつまでも働き続けるというわけではなく、人生のリタイアメントの時期は自分で決める、ということなのだと思います。お上がいてもいいよ、という年齢までほぼ自動的に勤め上げることが当たり前の日本とは、考え方が大きく異なります。

定年とは何か

さて、「いてもいいよ」と言われるまで会社に在籍させていただいた私ですが、改めてその定年というものについて考えてみました。

「定年」は「停年」とも表します。定年制度は、一定年齢に達したら雇用を終了する制度ですが、「停年」と書かれるとなんだか微妙な気持ちになります。確かに、雇用側からすれば、「雇用を停止する年齢」という意味合いなのでしょうが、その年齢になった人間からすると「人生を停止する年」とも聞こえてしまいます。それは、これまでの人生を、あまりにも会社や仕事優先で生きてきたからこそ、そう感じるのかもしれません。ですから、停止された後のことは自分でどうしていいのかわからない、となってしまうのでしょうね。

定年に諦念してしまうのか

そうなると、定年は人生の「底年」や「低年」として「諦念」してしまいます。定年が人生の中でもっとも低い底であり、終了年度として、あきらめの境地と入ってしまいそうです。このあとは何もかもが付け足しで、あとは死ぬまで付録のような人生、と観念しなければいけないのでしょうか。そんな考えは悲しすぎます、私はしたくはありません。逆に、定年したから好きなことをいつ何でもしてもよい、と言われても、それは会社時代に我慢してきたことの反動であり、結局は自分の人生において、会社が主、その他が従、と暗に認めているようにも聞こえてしまいます。それは、あまりにも長い間会社人間だったために全身に染み付いてしまったものが、簡単には払しょく、忘れる去ることができないから、そう皮肉な目で捉えてしまうのかもしれませんが。

抵うことを忘れない

私はそうではなく、この節目を「丁年」=「働き盛りの男子」として、様々なことに抵抗していく「抵年」として、また、これまでの人生を訂正していく「訂年」として生きていきたいと思います。人生の中で、様々なことに抗って生きていくことは面倒くさいことではありますが、そこが実はとても大切なことではないでしょうか。「いいわ、いいわ」のオジサンも悪くはないのですが、常に何事でも「いつも通り」ではなく、いちいちちゃんと自分の頭で考えて、これは変だと思えば面倒がらずにこだわって変える、そして人生を訂正していく。そんな当たり前のことに、年齢を言い訳にして逃げないで向き合っていく、それが「抵年」であり「訂年」ではないでしょうか。(ただし、つまらぬことや些細なことに拘るような、訳知り顔の頑固爺いにはなりたくないですね、いつまでもサラッといきたい。)

まずは向き合う

当たり前といえば当たり前のことになのに、一つひとつ今まできちんと向き合えていなかったことは、本当に山ほどあります。これまで「仕事だから」の一言で逃げてきて、取り組まなかったこともいっぱいあります。まずは、それらにひとつずつちゃんと向き合っていこうと考えた、春のような麗らかな今日の朝です。(一枚目の挿入写真を夕日とみるか、朝日とみるか、ですね)