青空と青い海、心おもむくまま

ご訪問ありがとうございます。このブログのきっかけは、もともと会社時代に社員の皆さんにお送りしていたレターでした。会社や人生の様々な悩みに対するヒントや、楽しく働くきっかけになればと書いていたものです。退職後も引き続き、日々の思いを書かせて頂いております。何か少しでも参考になれば幸いです。また、皆さんからご意見も頂ければ嬉しいので、よろしくお願い致します。

人間とは悲しきもの(2024/1/29)

新聞によると

50年前に起きた、1974年の連続企業爆破事件に関与した疑いで、指名手配されていた人物と名乗る方が、本日お亡くなりになりました。新聞報道などによると、偽名を使い、神奈川県内の土木会社に40年間にわたり住み込んで働いていた、とのこと。ことの発端は、道で動けなくなっていたところを通行人に手助けしてもらい、救急車で入院したものの重篤な状態で、本人から実は本名を桐島といい、本名で死にたいと告げられた、ということです。「うっちー」と呼ばれ、たまには近くの飲食店でお酒も飲み、1960年代のロックが好きで、DJイベントがあれば踊っていた、と今朝の朝日新聞記事に書かれていました。(この報道の通り、この方が本当に桐島だったとして、本文は書いています)

 

若気の至り

保険やパスポートなど自分を証明するものを一切持たず、日々の糧を細々と得て、たまに発散するだけの人生を少なくとも40年間過ごしていたようです。その人生を想像すると、なんともやりきれないものがあります。私も、若い頃に大人や世間に対し、いろいろなことに不満を持ち、それをどうぶつけていいのかわからず、鬱屈した思いを抱いたことはありました。大学生の時、自分のちょっと上の先輩たちの中で、過激派と言われてる方たちは、ほんの些細なきっかけからそういう組織に組み入れられていました。組織に入るだけならまだ良いのですが、彼などは若気の至りでは済まされないことを考え、それを止める者はおらず、むしろグループの中で我先に実行に移していく、という恐ろしい悪循環に陥っていったのではないでしょうか。

大きな過ち

ただ、一瞬の気の迷いだとしても、それが数多くの方の人生を奪い、捻じ曲げてしまった事実は変えられません。どんなに悔いても悔い切れるものではありません。未だに、事件の後遺症で苦しんでいらっしゃる方もいます。何というとんでもない大きな過ちでしょうか。彼は50年間何を考えていたのでしょうか。本当に革命の再起を願っていたのでしょうか。それとも、ただただ見つかるのが怖くて隠れていたのでしょうか。

一人では生きられない

彼の50年間のうち、少なくとも新聞記事にある40年間は、彼が周りの人間に実際は支えられていた、という事実をどう感じていたのでしょうか。自分ではなるべく人と接しないように生きてきたつもりだったのでしょうが、仕事先やその関係する方々、たまに訪れた飲食店の方達、具合が悪くなった時に道端で手を貸してくれた通行人の方々、救急車や病院の方たち・・・数え上げればものすごい数の人たちが、彼が生きていくことを支えてくれていたのです。その方達は、彼が若かりし頃に人民の敵、資本主義の手先と呼んで蔑んでいた人達の一部です。

人間というものの悲しさ

そんな方達を無差別に傷つけ苦しめておき、一方でそのコミュニティに助けられて生き延びる、そして最後には本名で死にたいと名乗りを上げる・・・なんて自分勝手なのでしょうか。本当に、人間とは切なく悲しいものなのだ、と感じました。そして、知ってか知らずか50年間そんな思いを抱きつづけて生きた彼の人生というものに、私は驚きを隠せません。最後に名乗るなら、彼にとってこれまで何のため逃避行だったのでしょうか。元に帰りたいのなら、どうしてもっともっと早く名乗りを上げなかったの。どうして、未だに苦しみが続いている方達が少しでも楽に、と考えなかったの・・・

今回の報道で感じたこと

人間誰しも間違いは起こす、とんでもない間違いも起こす、起こしてしまった時は逃げてもしようがない、自分が引き起こしことならば過ちを償うしかない、逃げれば逃げるほど相手にさらに苦しい思いをさせるだけ。

翻って、だからどんなにカッとなっても、決して人を傷つけたり、悲しむようなことをしてはいけないということ。

そしてもう一つ、どんな自分でも人間社会のコミュニティに助けられている、という事実。自分は関係ないつもりでも、やはりどこかで誰かに助けて頂いて生かされている。だから、自分もコミュニティの一員として、人間に対する慈しみを忘れず、できることをやる。大それたことをしろというのではなく、当たり前にすべきと思うことをする、ということがいかに大切なのか、ということでした。