青空と青い海、心おもむくまま

ご訪問ありがとうございます。このブログのきっかけは、もともと会社時代に社員の皆さんにお送りしていたレターでした。会社や人生の様々な悩みに対するヒントや、楽しく働くきっかけになればと書いていたものです。退職後も引き続き、日々の思いを書かせて頂いております。何か少しでも参考になれば幸いです。また、皆さんからご意見も頂ければ嬉しいので、よろしくお願い致します。

ゆでガエルの恐ろしさ(2023/6号)

今月は「ゆでガエルの恐ろしさ」というお題でお送りさせて頂きます。

自分では気が付かないうちに茹で上がってしまっているカエルの恐ろしさを、清掃や美化という点から愚考をお送りしたいと思います。

ホコリは毎日積もり続けます。明日やろう、誰かがやるだろう、裏側なので、専門業者じゃないので、とやれない理由はいくらでもつけられます。その慢心から組織はおかしくなっていきます。そして、茹でられていることに気が付かない哀れなカエルになってしまうのです。

ホコリは積もり続ける

当然のことですが、人間が動けばホコリが立ちます、ものに触れば汚れが付きます。また、今日掲示した案内書きは明日には古くなります。私たちの施設は、掃除が終わった瞬間からホコリが積りはじめ、掲示したそばから情報が古くなります。私たちはずっと同じ場所にいるのですが、お客様自身は訪れるのはたまです。そこに自ずと目線が異なってきます。少しずつ汚れて古くなっていくものに、人間は意外と鈍感です。

できない言い訳

その慣れというものは本当に恐ろしいものです。汚れは一日放置してもわかりません、二日放置してもあまり変化がわかりません、一週間経ってなんとなく汚れてきたけど、まだ何となく大丈夫そうです…まあいいや明日やれば良い、誰かがやるだろうから、ここは見えない裏側だから、やってはいるけど素人だからこの程度でしようがない、清掃や片づけをやらない、やれない言い訳はいくらでもあります。でも、おいで頂いたお客様にとっては、たまたまだったとしても、施設が汚れていて、古い情報が掲示しっぱなしだったとしたらどう思うでしょうか。一旦下がった評価は、その後そう簡単には元には戻せません。これはとても大きな損失といえるのではないでしょうか。

明日やればよい

「気が付いていたけど明日やれば良い」のでしょうか。例えば、落ち葉はシーズンになると毎日のように舞い散ります。今日掃除しても明日はまた積ります。だからやらないのでしょうか、いいえ、だからやるのではないでしょうか。お客様とは毎日が一期一会なのです。そのために、私たちはいつも万全を目指し続けなければならないのです。私には、「明日やれば」という明日は永遠に来ないような気さえします。

誰かがやるだろう

「誰かがやるからいいだろう」と見て見ぬふりなのでしょうか。いったいその誰かとは誰ですか、清掃会社さんですか、それとも部下ですか、はたまた上司ですか。本格的な掃除や片づけならいざ知らず、ちょっとした汚れや曲がりに気が付いた人が、気が付いた時にササッときれいにしたり直しておくのがサービス業従事者の本領ではないでしょうか。掲示物が曲がっていれば貼り直す、古ければ取り替える、そういった労を惜しむ必要がどこにあるのでしょうか。私は、そういった気遣いや感性に基づく行動が、当社にはとても大事だと思います。これは誰々でなければいけない、自分にはやる資格がない、自分の仕事ではない、なんてことは一切ないのですから。

裏だからしようがない

「ここはお客様の目に触れる場所でないからきれいにする必要はない」ものなのでしょうか。ハレとケの場において、ハレの場さえきれいであればケの場はどうでもよいでしょうか。でも、ケとハレは同じ人間で繋がっています。ケはどうでもよい、という心根の持ちようが、いつかハレの場で出てしまわないでしょうか。人間はそんなには器用ではないので、表裏の使い分けなど大抵の人には上手くできないのではないかしら。ですから、「ケ=裏側だからどうでもよい」と考えた瞬間から、「ハレ=表側もそれなり」でしかなくなってしまうように私には思えます。

専門業者じゃないので

「やってはいるけど素人だからしようがない」という言い訳はどうでしょうか。確かに一生懸命は大事ですが、それでも汚れが残っていたり、掲示物がまっすぐ貼られていなかったり、ベタベタと見苦しく貼られたものを、頑張ったからしようがない、と許されるなんてことはありません。自分たちでは上手にできないのであれば、費用をかけてでもきちんとすべき、それがサービス業としての矜持ではないでしょうか。

トイレはこころの鏡

施設や設備が古いことより、新しいものであっても汚くされていることに対して、私たちは心が痛みます。そう私たちが感じることは、お客様も同じように感じます。トイレの神様ではありませんが、トイレだって私たちの心の鏡です、汚ければ心が曇っていることになります。私たちは毎日飽くことなく磨き続けなければなりません。一回やればハイお終い、というわけにはいかないのです。

慢心したらお終い

日々慢心せず気持ちを新たに持ち続けないと、私たちは変化に気が付けないのです。カエルが小さな器の中で安穏とぬるま湯を楽しんでいる時に自分の身の上に起こっていることに気付かず、気が付いた時にはすでに死に体になっている。そういう恐ろしさは決して清掃や美化に限ったことではない、ということを皆さんには胸に刻んでおいて頂きたいのです。