青い空と青い海、心おもむくまま

ご訪問ありがとうございます。このブログのきっかけは、もともと会社時代に社員の皆さんにお送りしていたレターでした。会社や人生の様々な悩みに対するヒントや、楽しく働くきっかけになればと書いていたものです。退職後も引き続き、日々の思いを書かせて頂いております。何か少しでも参考になれば幸いです。また、皆さんからご意見も頂ければ嬉しいので、よろしくお願い致します。

誰もが大事な一人(2024/1号)

今回は、「誰もが大事な一人」というお題でお送りさせて頂きます。

会社の中に必要のない人などはいません。誰もが大事な一員で、夫々が役割を果たしています。一人一人にとっても、人生の中の多くの時間を仕事の場で過ごすわけですから、仮に同じようなことの繰り返しであっても、その時間を大事に過ごすことで、運を味方につけ、それが自分に返ってくるものではないでしょうか。

 

一人一人が会社の代表

私は、これまで五年にわたり皆様に様々なお話をお送りさせて頂いてきました。報連相、気遣い、自発、一礼、言葉、思いやり、妬み、ルール、ゆでガエル等々…共通して言いたかったことは、皆さんお一人お一人が当社にとって大事な一人、ということです。誰一人として、当社に不要だとか必要ないなんてことはありません。だからこそ、皆さんには仕事に対して当事者としての意識を持ち、自分イコール会社という気持ちを持ち続けて頂きたいのです。「そんなの恐れ多い」と言われますが、そんなことありません。

大事なワンピースです

皆さんお一人ずつの力は、全体からみれば微力かもしれませんが、決してゼロではありません。必ずお一人ずつの力が活きています。会社にとって、お一人ずつが大切なジグソーパズルのピースです。ジグソーパズルは一つでも欠けると完成できません。真ん中のピースであっても端っこのピースであっても、どれもが重要な一つのピースであることには変わりありません。

せっかく過ごす仕事の時間を大切にしたい

私は、常日頃から皆さんには始業時から終業時間を待つような受け身の仕事をして欲しくないと思っています。人生の半分近くを会社で過ごす訳ですが、その間は仮死状態でよいのでしょうか。会社にいようがどこにいようが、全て自分の時間であることに変わりません。ですから、会社では仮の姿とかいって斜に構えるのを止めませんか。自分も組織の中の一員として、正面から仕事というものに向き合いませんか。

確かに、仕事は人生の全てではありませんし、そうあるべきではないと思います。自分の人生は自分で決めるもので、他人や会社に決められるものではありません。他人や会社のために生きる必要もありません。ただ、仕事では毎日いろいろな経験を積み重ねます。同じようなことの繰り返しもあるし、まるで違うこともあります。そういった様々な経験を秤(はかり)で計ったら、膨大な物凄い量になると思いませんか。

受け止め方次第で

問題は自分がそれをどう受け止めるか、活かすのか活かさないのかです。まったくスルーもできますが、反対にこの膨大な経験を質に高めることはできないでしょうか。阪急東宝グループ創設者の故小林一三さんは「下足番を命じられたら日本一の下足番を目指せ。そうすれば、君は下足番におかれないようになる。」とおっしゃったそうです。私たちは、平凡な業務は後回しで適当に処理することが多いですよね。実はその平凡を究めることが、膨大な経験を質的な高まりに転換していくことになります。ただ、むやみやたらに頑張れば良いものではなく、物事は同じように見えても実は少しずつ違います。平凡であっても頭を使って考えることが大事です。こうすればもっと上手にいく、効率的になる等々。物事に「これしかない」ということはありません。そして、それを究めようとするうちに、自分自身も高まっていくのではないでしょうか。

恥ずかしげもなくてもよい

仕事はチームプレーです。ですから、謙譲の精神が大事であることは言うまでもありません。一人だけ飛び抜けて目立ってもチームには迷惑です。ただ、仕事の上で「遠慮だけ」というのもダメだと思います。よく「恥ずかしげもなく」とか言われますが、果たしてそれはいけないことでしょうか。最近はSNSの影響からか「格好悪い」と他人の目を常に気にする風潮があります。それでも、仕事でやらねばならないときに、脇目もふらずガムシャラにやってはいけませんか。泥臭くてもいい、年甲斐もなくてもいい。裃(かみしも)を脱ぎ捨てて腕捲り(うでまくり)で恰好をつけずにやるときはやる。それが、その人に運を呼び込むような気がします。運不運は時の運ともいいますが、必死を究めることで、運すら味方に付けることができるのではないか、と私は思います。

 

つまらぬ仕事でも大事にすれば

ということで、皆さんは誰もが大事なお一人です。その人生の時間を大切に生きましょう。仕事でもプライベートでも、全てがせっかくの機会です。自分の人生の当事者として活かしませんか。世の中につまらぬ仕事などありません。頭を使い、恰好をつけず、わき目もふらずに頑張れば、毎日の膨大な経験が質として極まります。それは周り回って「必ず自分に返ってくる」と欲張って信じても良いかもしれません。…

タテ社会の弊害(2023/12号)

今月は「タテ社会の弊害」というお題でお送りさせて頂きます。

日本の社会では、上下の関係に対する気遣いが行き過ぎて、無関心な指示待ち人間が増えてしまっているようです。また、上司もどうしたら良いのかわからず、無用な強がりからパワハラを引き起こしてしまっています。そんなつまらない気遣いや忖度などはやめて、もっと開かれた関係を構築していきませんか。

過度な遠慮を反省

年の瀬を迎えるに際しツラツラと考えていたところ、これまでの私の44年に亙る会社員人生の大きな反省点に思い至りました。最近の某歌劇団の騒動に触発されたのかもしれませんが、「これまで自分は、会社や上司に過度に遠慮してきたなぁ」というものです。決して昭和という時代のせいにはしたくはないのですが、社会人になった当時は上司の声は神の声に等しく、会社の方針は絶対であると思っておりました。与えられた仕事には必死に汗を流して取り組んできましたが、こと自分より上に対しては思考停止に陥っていたと思います。会社が決めたことだから、上が言うことだから、と無邪気にそれを免罪符にし、都合よくスルーしてきました。突き詰めれば、そこに自分の社会人としての限界や至らなさ、或いは悔いが凝縮されているように感じます。

行き過ぎた上下関係

そもそも日本には、1500年前に伝来した孔子儒教の考えが深く根付き、「上下の秩序」に対する関係が重視されてきました。島国という閉鎖された土地で、ほぼ単一の民族の中で、争いを避け上手くやっていくためには必要な知恵だったのかもしれません。ただ、明治以降海外と向き合うようになり、それは挙国一致といった有無を言わさない全体主義へと変化していきました。戦後高度成長期に入り会社人間が多数生まれるようになると、今度は会社というものが至上命題となりました。下は上からの指示待ち人間として思考停止に陥り、さらには出世や昇給のための過度な忖度(そんたく)、阿り(おもねり)が生まれました。どんな指示でも私を殺して無条件で受け入れ、それを達成するために全力を尽くす。それが、最も素晴らしい社員像とされました。これまで、過去形で書きましたが、実はこういった考え方はIT社会と言われる現代でも未だに端々に脈々と受け継がれています。近年では、諦めとか無関心という言葉に置き換わってきていますが、嫌々であっても無条件で受け入れていることに変わりはないと思います。

上司としての在り方がわからない

一方、上の方々はどうでしょうか。年功序列で上がっただけ、たまたま人材不足で偶然に、等々いろいろ事情はあると思います。ただ、突然降って湧いた立場に戸惑い、どうしてよいかわからない、という方が実は多いのではないでしょうか。上なのだから何か指示をしなければならない、教えなければならない、と焦って意味のない仕事を指示し、無分別な指導を行ってしまう。言うに事欠いて教育という名の人格否定等々…。それらは、意図しなくても立派なパワハラです。ですが、下の人たちを束ねる立場となったからには、皆の期待に応えなければなりません。少人数の組織であっても、その組織がどこに向かうのか指し示すことが求められます。そう言われ誰もがプレッシャーをかけられますが、実は誰しもが答えを分かっている訳ではありません。そんな時はどうか焦らずに、決して知ったかぶりをせず、強がらず謙虚に思いを吐露し、皆と一緒に悩み、その時その時の答えを模索し続けていって下さい。

人間としての尊厳を守る

 一方、会社組織はそもそも人間の集合体です。人間にはどんな方にも人として最低限の尊厳があります。能力や見た目が異なっていても、人間であることには変わりません。ですから、会社員である前に人としてのリスペクト、尊敬がなされなければなりません。動きが鈍くとも年長者には人生を長く生きた経験と知恵があり、先(せん)達(だつ)に敬意を表さなければいけません。近年、会社は年功序列から実力主義になってきていますが、会社人としての業務能力と人間としての評価を混同してはいけません。繰り返しますが、会社人である前に皆は人であり、人間として平等なのですから。

開かれた会社へ

私は、そういう人としての礼節という最低限基本的な部分を守った上で、これからの会社はもっともっと上にも下にも開かれていくべきだと思います。タテ社会の最も大きな弊害は、組織の血液である「情報」を止めてしまうことです。情報が止まり徐々に壊死していくような、つまらぬ弊害を決して繰り返してはいけません。上であっても下であっても、何でこの仕事はこうするのか、こうしても良いのでは、と忌憚(きたん)のないコミュニケーションがいつでもできるようにしたい。仕事の上では遠慮をしない、はっきりと意見を言いあえる組織でありたい。「忙しそうだから」という配慮も、独り善がりの忖度かもしれません。

忖度などは無用の気遣い

そもそも「忖度」なんていう過度な気遣いは仕事には不必要です。ゴマすりのような要らぬ配慮は止めて、お互いに余計な気遣いをせず、また気遣いをされずに真摯に仕事に向き合える組織であって欲しい。相手に「どう思われるか」なんて心配や躊躇する気持ちを振り切って、思い切って話をしてみましょう、きっと皆さんが心配しているほど相手は気にしていないはずですから。

知ろうとすること(2023/11号)

今月は、「知ろうとすること」というお話をお送りさせて頂きます。

仕事において、業務に関してもっと知ろうとしない、また知っているのに知らせようとしないということは、不作為の作為となります。常になぜなんだろうと考えて知ろうとすることが、自分自身の成長とその取り巻く環境を変えていくきっかけとなるのではないでしょうか

知る必要なんかない?

そもそも、誰しも入職したての頃は事業所内の右を見ても左を見ても知らないこと、分からないことだらけで、知るべきことが山ほどあろうかと思います。一方、中堅やベテランの方であっても、自分の業務はどうしてこういうやり方なのか、ましてや他部署はなぜああやっているのか等、改めて問われると知らないことが意外と多いのではないでしょうか。そんなことは考えたこともないし、知る必要も感じたことない、よくわからないけどこれはこうするものだ、こうしておけばいいと昔教わった、聞いたけど「余計なことをつべこべ言わない」とご指導された?方もいると思います。果たして「余計なこと」と言われることを、わざわざ知ろうとする必要はないのでしょうか。それとも、誰かが教えてくれるのを待っていればよいのでしょうか。

知ることで変わる

いやいや、自分の業務すらわかっていないのに他人の業務まで知る必要はない、という意見もあります。逆に、自分の業務を知るためには関連する業務を知ることも大事、ともいえます。なぜ自分はこういうやり方で業務をやっているのか、この業務は他部署とどう連係しているのか、そして事業所や会社にどのように寄与しているのか、そもそもこうやっているのはどんな経緯、理由なのか等々・・・知らないことがいっぱいあります。私は、そういうことを知ろうとすることが現状を変えることに繋がっていくと思います。

知ることで自らを変えていく

知ることで人間は考えます。「人間は考える葦(あし)」とも言われています。「なせ?」と考えるからこそ人間であり、疑問が現状を見直すきっかけになります。知ろうとすることで自分の可動域は拡がり、活動範囲も広がります。知ろうとしない人は、知ってしまえばパンドラの箱を開けてしまうようで怖いのでしょうか。でも、どうせ同じ時間を仕事で過ごすなら、嫌々(いやいや)過ごすより楽しく過ごしたい。会社では、拗ねて(すねて)斜に構えていても誰も声なんかかけてくれません。折角なら、もっと素直になって、正面から仕事に向き合って良いのではないでしょうか。自分じゃなくて誰かが変えてくれるかもと期待していても、たぶん何も変わらないと思います。ですから、自らの環境を変えるために自ら知ろうとすることに挑戦しませんか。

知る義務、知らせる義務

憲法では「国民の知る権利」を保障しています。片や会社には「知る義務、知らせる義務」があります。私たちは仕事として知らなければいけないし、知らせなければいけません。ちょっと一部を知ったぐらいで「我、事足れり」と満足していてはいけません。

表面だけでなく「それはなぜ?」という向上心を持ってはじめて、組織の一員としての本当の義務を果たすことになるのではないでしょうか。

不作為の作為

上司は部下が知ろうとすることに対して、「知らなくてよい」と一方的に決めつけてはいけません。「いちいち聞くな、背中を見ろ、黙って盗め」というのは、今どきあり得ません。それでは、何ら上司の義務を果たしたことになりません。当然に、企業には責任範囲に応じた秘密事項が多々あり、何でもかんでも皆に詳らか(つまびらか)にすることなどはできません。ただ、知る必要がないのであれば、どうしてそうなのか、きちんと説明することが大切です。知ろうとしていることに対し、いかに分かり易く丁寧に教えられるかは、上司にとってひとつの大きな役割です。あえて厳しく言えば、「知ろうとしない、知らせようとしない」ということは、「不作為の作為」(期待されていることをやらないことを積極的に行う)、或いは業務のサボタージュといっても過言ではないと思います。

深く知る

皆さんには、与えられた知識や情報、目の前に見えるものだけに満足せず、もっともっと自分と自分の業務環境を良くしていくため、広く深く貪欲にいろいろなことを知ろうとして頂きたい。そして、なぜなのか考え続けて下さい。それは社会人としてとても大切なことです。上司の方は、知ろうとする部下に対して、まるでお客様に奉仕するかの如く、最大限のバックアップをお願いします。

長とつく方達へ

最後に「長」と名が付く方に一言。

ご自分の部署、事業所の人や物、あらゆることについて、もっともっと知ってください。どの組織でも「長」は皆さん一人だけです。全体を見渡す立場の方は他におらず、皆さんは余人をもって代え難い存在です。ご自分の組織の人、物に関する過去、現在、未来について、知ろうとせず、さらに考えもしない、発信もしないということは、会社のみならず仲間でもある事業所の皆さんに対して「不作為の作為」になることを決して忘れないようにして下さい。私は、そんな見ざる・言わざる・聞かざるような方を当社に歓迎したくはありません。

信じる力(2023/10号)

今月は「信じる力」というお題で愚考をお送りしたいと思います。

トムホーバス監督や栗山監督は選手に対して、信じると言い続けて結果を残しました。人間は、はなから出来ないと思わず自分を信じることで成長します。人を信じたいという気持ちは誰しももっていますが、丸呑みせずに自分で確かめることも大事です。人は信じられることで力を発揮するということを、とことん信じてみませんか。

信あれば徳あり

ちょっと古い話ですが、WBC優勝の栗山監督や男女バスケットボール日本代表のトム・ホーバス監督がよくおっしゃった言葉に「信じる」があります。「信じる」には、自分自身を信じる、相手や人を信じる、チームや組織を信じる、と様々あります。両監督は戦う前から選手が気持ちで負けないように、自分、同僚、チームを信じてと、念仏のように言い続けたということです。「イワシの頭も信心から」ということわざがありますが、それより「信あれば徳あり」とか、「虚仮(コケ=特別でない人)の一念岩をも通す」とかいう表現が適切なのかもしれません。

自分を信じることは楽しいこと

自分というものを信じ、自分の可能性や能力を信じる。今はできていないかもしれないけど、いつかきっとできるようになると信じる。「できない」からと端(はな)から諦めるのと、「できるかもしれない」と信じるのとでは、どちらが成長するか。誰かとの比較で「あいつよりできる」ではなく、今の自分と将来の自分との比較で「成長する」ことを信じる。信じることをやめた瞬間、そこで全て止まります。信じ続けなければ何も進めないし、進まなければ成長もありません。ただ、信じ続けることは決して楽なことではありません。さらに、信じるだけでは何も生まれません。自らもがき苦しむ努力が必要です。そして、苦しんだ先に何かしら待っているからこそ頑張れる。それが楽しいのではないでしょうか。つまり、信じることは楽しいことかもしれません。

信じてはいけない?

しかしながら、悲しいことに世の中ではオレオレ詐欺が蔓延しているような今日この頃です。学校ですら、何でも簡単に「信じる」なんてしてはいけない、と教えています。私たちは、これからの渡世において人を信じてはいけないのでしょうか。そう言われても、常に疑心暗鬼で人を疑って生きていくことは、それはそれで大変です。いつも、肩ひじを張って気持ちをざわつかせているって、何とも気持ち悪いものです。

本当は信じたい

私が楽観的で性善説なのかもしれませんが、人は「素直に信じ切ることで得られる心の平静」といったものを求めているのではないでしょうか。本当は、人は「信じたい」のではないでしょうか。ただ、これまで受けたこころの傷や嫌な思い出、失敗などが、トラウマとなって素直に人を信じることを阻害しているような気がします。それを払しょくするのは並大抵ではありませんが、まずはそういう自分を直視し、そんな自分を理解してあげることが、信じるための最初の一歩となるかもしれません。

見ることは信じること

ただし、信じるということは決して相手の言うことを丸呑みすることでもなく、盲信することでもありません。自分に対してもそうです。自分自身を信じることはとても大事ですが、自分の経験や知識が全て正しいとは限りません。信じることと正しいことはまったく別物です。常に自省し、自分を見直し修正していくことが大事です。自惚れてはいけません。他人や組織に対しても同じことが言えます。自分で考えもせずに、面倒くさいと相手の意見や組織の考えを盲信し丸呑みし、巻かれてしまうことが信じることではありません。正しいかどうかは自分で考え判断しなければいけません。「見ることは信じること」と言います。聞いたことを丸呑みせず、自ら動いて自分で見てみなければ、それこそ考えることも信じることもできないとは思いませんか。

信じられれば裏切らない

 「信じる」とは「人に言う」と書きます。人同士が言葉で約束を交わす、という意味で、「まこと」とも読みます。ある意味人というものは単純で、自分が誰かから信じられているとわかると、大半はそれを裏切らないように努力します。

上司と部下の信じる関係

ですから、盲信や丸投げは禁物ですが、上司は部下をとことん信じて見守る勇気が必要です。信じていても失敗は起こります。ですから、上司は投げっぱなしで放置せず、相手本位で部下が成長するようフォローしなければなりません。失敗するから信じないのではなく、失敗したら一緒に成長を促す。信じられた相手は期待に応えようと努力し成長します。さらに、上司が常に能力で部下を上回っている訳ではありません。上司には経験知があっても、部下の方には柔軟性や吸収力、瞬発力があります。多少の失敗があっても、部下の方が自分より優秀だと認める勇気も必要です。認めた上で上手にフォローすれば、1+1が3にも4にもなります。そして、3や4にするためには「そうなる」ことを疑わずに信じることも大切です。

信じることで力は発揮される

皆さんが職場や自分の居場所を心地よいものにしたいのなら、自分を信じ、相手を信じ、チームを信じて、その結果「信じる力というものが力を発揮する」ことを信じてみてはどうでしょうか。

ひと息入れよう(2023/9号)

今月は「ひと息入れよう」というお題で愚考をお送り致します。

最近相手の気持ちを思いやることができないハラスメントが増加しています。そうならないためには、おかしいと思ったら一度立ち止まり、過去の成功体験を引きずらない、何事も自分の思った通りにはいかないもの、一人でできることには限りがある、と考え、はやる気持ちにひと息入れましょう。

意識しないハラスメント

最近、内外ともにハラスメント関係の問題が増えてきているような気がします。今マスコミを賑わしている、自動車関連のBさんなどもまさにそうです。なぜ増えてきているかというと、自分の言動が相手に対してどのように影響するか想像する余裕が無くなってきているから、と言われています。下手をすると、ハラスメントを指導する立場の方々でさえ、それがハラスメントであるということをまったく意識しておらず、いわんや意識せずに行動していること自体が大きな問題となっています。特に、これまでご自分自身が厳しく指導をされてきた方たちや、厳しく指導することで成績を上げることが当然だとされる環境で育ってきた方たちにとっては、それ以外の関わり方を想像することは難しいのかもしれません。

互いに思いやる気持ちの欠如

その結果、今さえよければよい、自分さえよければよい、という最近の風潮と相まって、お互いが数字だけの殺伐とした関係になってしまった気もします。当人は決してサボっている訳ではなく、むしろ熱心になり過ぎて時間に追われるような生活を続けることで、周りの方のこころを思う、思いやるという想像力が急激に欠如していってしまうのではないでしょうか。その結果、頑張っているはずなのに無意識に相手を傷つけてしまい、相手も自分を守るために殻に籠り、双方でハラスメントが生まれる素地を作ってしまっています。

立ち止まる勇気

 では、どうすればそういったハラスメントを減らすことができるのでしょうか。

山登りの世界では、道に迷ったら歩き続けずに立ち止まることが鉄則です。勇気のいることですが、無暗に歩き回るより立ち止まった方が助かります。同じように、仕事であっても、おかしいと思い迷ったら立ち止まればよいのです。「歩き続けなくてはいけない」という強迫観念から、動き出したら立ち止まることを許さないのは、まるでどこかの軍隊のようです。一度決めたことを翻してはいけないという法はなく、その時々に合わせて朝令暮改をすればよいのです。私たちは、そういう無謀で自己中心的な強制が、結果的にハラスメントを生んでいることに気が付かなければなりません。

過去の成功体験を引きずらない

次に、これは当たり前な話ですが、時間というものは刻々と流れています。ですから、あの時こうだった、こうすればよかったと過去を悔やんでも仕方がありません。その時点で私たちができたことがベストであり、今の自分が過去を批判し後悔してもしようがないことです。加えて、いつまでも過去の成功体験を引きずり、良かったところだけをパッチワークのように求めても、それも現実にはできないことです。そういうのは前向きな反省とは呼べず、結果的にハラスメントにつながってしまいます。

何もかも思い通りにはいかない

また、業務に熱心な方ほど、ご自分のやり方、流儀というものを持っていて、それに基づき結果から逆算して一から十まで見通しを立てられる方がおります。とても素晴らしいことなのですが、人生というものはそんなに合理的ではなく、時には予期せぬ方向に向かってしまうこともあります。そういう様に何ごとも計算通りにはいかないものだ、ということを認め、それを容認しなければ、やはりハラスメントの芽が育ってしまいます。ご自分に厳しいのはよいかもしれませんが、物事は思い通りにはなりませんし、ましてや周りの方に無意識に同じレベルで求めていませんか。

一人で力んでもしようがない

最後に、共同体では人間は決して一人では生きることはできない、のです。一人で力んで(りきんで)もロクなものは生まれませんし、できる事は限られています。また、自分の考えられる範囲だけでは、仕事は小さくなってしまいます。会社という共同体の中にいる皆さんは、互いに何らかの影響を与え合っており、各々がそこにいるだけで貢献しているといっても良い、と思います。あの人は仕事ができない、だめだ、とかそもそも誰が決めたのでしょうか。その評価のハードルを徐々に上げていくと、最後には自分以外誰一人残らないことになります。実はそのハードルは自分を基準として設定したものです。そう、あなたは何かに急ぎ過ぎていて、自己中心になり過ぎていませんか。決して自分さえ良ければよいとは思っていないのかもしれませんが、結果的に考え方が自己を中心として寄ってきてしまっていませんか。頑張っているのだから自分は違う、という免罪符はありません。

立ち止まってひと息いれる

一旦立ち止まって、ひと息入れましょう。一歩引いて鳥のように俯瞰してみると、また違った有り姿が見えてきます。ひと息入れて立ち止まり振り返る時間を持つことで、相手のこころを思いやる気持ちが生まれ、ハラスメントから良好な人間関係へと変わっていくきっかけになる、と思うのです。

伝わらない話し方(2023/8号)

今月は「伝わらない話し方」というお題で愚考をお送りします。

話が伝わらないのには、自分のことばかり、話が思い付きで長い、主観的でわかりにくい、どうでもよいことが多いなど、話し手に問題があることが多いようです。相手の気持ちを思いやり、平易な言葉で短く端的な話し方を心がけましょう。

人の話を聞いていない

以前にもお話しましたが、人は他人の話の八割を聞いておらず、話の真意のほとんどは伝わっていない、といっても過言ではないかもしれません。雑談は通じるのに、真剣な真面目な話ほど理解されない、なんてことはありませんか。当然、聞く側にも問題はあります。

伝わらない話し方

ただ、一番には話す側に問題があり、そもそも伝わらない話し方をしていることが原因だと思います。例えば、

  1. 自分の話ばかりする、
  2. 思いついたまま話をし、ダラダラと長い、
  3. 話が主観的で、専門用語が多く、感情を露わにする、
  4. どうでもよい話が多く、妙に高圧的だったりへりくだったりする

等があります。(これを読んで「自分は違うけど」と思った方が一番危ないかも…)

気持ちが先行して伝わらない

そもそも上手な会話とは、聞き方7割、話し方3割と言われています。それなのに人間は話したいことがあると気持ちが先行し、自分の言いたいことを我慢せずに滔々(とうとう)とまくし立ててしまいがちです。思いついた順に言いたいことを口にします。そうなると聞いている方はたまらず、耳を塞ぎ聞く気も失せます。結局何を言われたのか、話の輪郭すら理解できなくなります。さらに、話がいちいち長いと、聞く方は言っていることを理解しようとするだけで疲れてしまいます。まるで出来の悪い英語の長文読解のようで、一度でストンと腹落ちしません。

主観的で伝わらない

話が主観的なことも聞き手の理解が進みません。会話には、話す人の主観だけでなく、誰もが理解できるような客観的なデータや事例、固有名詞などを織り交ぜないとイメージを共有できません。相手は自分とは違うのです。専門用語やカタカナ言葉、業界用語の多用も同じです。それらはしょせん身内言葉でしかなく、逆に聞き手の理解を阻害します。思い入れが強く感情的になり、相手に最後まで話をさせないようになると、相手の気持ちは汐が引くように引いてしまいます。そうなると「どうしてこんな簡単な事がわからないのか」と、ますます悪循環に陥っていきます。

いつまでも本題に入らない

また、私たちは一般に、会話を潤滑にするために話の間に接ぎ穂を織り込みます。けれどいつまでたっても本題に入らず、調べればわかるようことまで延々と聞いたりすることは、いたずらに話を薄っぺらく長引かせるだけで、聞き手の気持ちをザラつかせます。加えて、高圧的な話し方はいまどき論外ですが、妙にへりくだられるのも困りものです。親しき仲にも礼儀ありとはいえ、いつもへりくだられると慇懃無礼(いんぎんぶれい)にすら感じてしまいますし、しまいには話の真意が理解できなくなってしまいます。

伝わる話し方

このように、自分では気が付いておらず、そうは感じていないかもしれませんが、案外真面目なほど話って伝わらないものです。では、どうしたら良いでしょうか。

まず、自分の話が多い方は相手の一番知りたいことを最初に話しましょう。立場を利用して自分の話したいことを優先しない、上手な会話には我慢が必要です。会話はストレス発散の場ではなく、大事な意思の伝達の場です。自分の思いは横に置き、弱みをさらして相手の懐に飛び込み、相手のことを理解しようと味方になる。フリではなく真心で話をする。そういう、相手に対する思いやりが大事ではないでしょうか。

短いフレーズで

ダラダラと長い方は、とにかくフレーズを短く切ってみます。きっと物足らないでしょうが我慢して短く。そして、話し方の順番を変えます。最初に結論、次にその理由、そして具体例、最後にもう一度結論。これが一番シンプルで伝わりやすい。言いたいことをすべて伝えようとしない。何でもかんでも話の枝葉まで同時に伝えようとするから分かりにくいのであり、話の幹の部分が理解されればよし、とします。

客観的に聞いてみる

また、主観的な話の多い方は、一度ご自分の話しっぷりを録音して客観的に聞いてみてください。きっと驚くほど自分の話がわかりにくいことに気が付かれると思います。カタカナも業界用語も使わず、誰にでも理解できるよう分かりやすく話すことは本当に難しいことです。まずは自分の感情の動きを抑え、あえてゆっくりと一呼吸置いて、噛んで含めるように話すことで、会話の中に考える間(ま)を作ってはどうでしょうか。

相手のことを話題にする

会話の接ぎ穂は、できる限り相手のことを話題にします。自分に関係する話題だと相手も話に乗りやすくなります。そもそも会話は、話し手と聞き手が対等な立場であることが大事です。居丈高やへりくだりは、聞き手側にバリアを張らせ、無意識に両者の間に階層を作ります。何にも増して、言葉足らずであったり持って回ったような回りくどい言い方は、結果的に真逆の意味にとられてしまいかねません。

言うは易しですが

このように、伝えるためには「勢いで話さず、相手の話をよく聞き、どう話せば相手に理解されるか考え、話す前にひと呼吸入れ、平易な言葉で結論から短く話す」ことが肝要です。とはいえ言うは易しで、そう簡単でないところがやっかいです。…

生活を楽しむ(2023/7号)

今月は「生活を楽しむ」というお題で弊職の愚考をお送りします。

華々しい目標を達成することだけが人生の成功ではありません。過去は変えられませんし、未来はどうなるかわかりません。日々の生活に正面から向き合い、今を大切にして「日々是好日」と生きることが、十分に楽しい人生といえるのではないでしょうか。

生活と人生

一般に生活とか人生とか聞くと、「生活」の方は何か地味で、ともすれば生計をやりくりするとか、見過ぎ世過ぎとか、後ろ向きなイメージがあります。一方「人生」というと人の生き様という感じで、生活より前向きなように感じられます。私たちの毎日は、仕事に行ってご飯を食べてと、日々をアタフタとこなすのに精一杯で、人生云々どころではないかもしれません。とはいえ、本来人間にはきちんきちんと三度のご飯を食べて、清潔にして、暖かな布団で寝て、しっかりと仕事をして思いっきり遊ぶ、というメリハリある生活が大切です。では、生活と人生は別物なのでしょうか。

人生の成功とは

人間誰しも人生に失敗したくない、成功したいと考えていると思います。ただ極端な話、生活を犠牲にしてまでも、成功する人生などあるのでしょうか。そもそも人生の成功とは何なのでしょうか。確かに自ら高い目標を設定して、艱難(かんなん)辛苦(しんく)し、玉を磨き、自らの人間的な成長を成し遂げることは人生の大きな目標たる到達点です。ただ、そういう誰が見ても素晴らしいと言える結果が無いと、人生に成功したと言えないのでしょうか。

人生の目標

私たちは、全員が高い目標を持っている訳ではなく、むしろ「目標なんかないなあ」という人の方が多いのではないでしょうか。では、その方たちは人生に成功できないのでしょうか。そんなことはありません。成功云々は、稼いだお金の多寡ではなく、周りや世間の評価や評判でもなく、当人がどう感じるかだけだと思います。決して大それたことを成し遂げた訳でもなくとも、日々の生活が自分にとって十分満足なものなら、それは素晴らしい人生なのではないでしょうか。

生活を犠牲にする人生

元より仕事も生活の一部であり、生活の中にはご飯を食べたり、服を着たり、寝たり、遊んだりするあらゆることが含まれます。私は、ある時期それらの生活のすべてを犠牲にし、全てを捧げて何かを成し遂げようとすることを否定するものでは決してありません。それは、人間の成長に欠かせない一時期であり一部分だからです。

日々に向き合う

ただ、それが全てになってしまってはいけないのではないか、とも思います。美味しいごはんをきちんと食べて、清潔にして、暖かい布団に寝て、という生活を決して軽んじてはいけません。日々の出来事ひとつひとつにきちんと正面から向き合い、濃密に積み重ねていくことは決してつまらない人生などではなく、それらを自分の腹の中に落とし込めるならば、充実した人生といって良いのだと思います。日々の生活の積み重ねが精神的な満足と安定をもたらし、それは結果的に良い仕事に結びつきます。そして、良い仕事をすることが生活の張りとして還元される、という好循環が生まれます。つまり、人生と生活は別物ではなく、日々の生活そのものがあなたの人生なのです。ですから、毎日の生活をないがしろにせず、生活上に起こる様々な雑事を後回しにせずにその都度向き合って、むしろ突発事態までを楽しんでしまいませんか。

過去はなかったことにはできない

 日々積み重ねた生活の履歴が人生となる訳ですが、その過去は取り消すことはできません。ある時点から人生をやり直すことはできても、過去を無かったことにはできません。過去を後悔し悩んでも取り戻しようがありません。それはどうしようもないことで、いつまでどんなに悩やもうが詮無きことなのです。あきらめましょう。

未来はわからない

では、未来はどうでしょう。将来素晴らしい人生を送りたい、とは誰もが思うことです。ですが、日々の積み重ねの結果が将来になるのですから、いくらああなれば、こうなれば、と望んでもそれは空想でしかありません。ですから、未来に対しても今から起こってもいない事をあれこれ悩んでも、過去と同じように何も解決しません。希望を持つことは大切ですが、いたずらに心配しても無駄です。

今を大切にして楽しむ

それよりも今現在が大事です。今日の生活を大事に生きなければ、素晴らしい明日はやってきません。明日になって昨日は良かったと感じたいのなら、今日をきちんと生活する。その積み重ねが、ある時ふと振り返った時に「自分はちゃんと生きている」という実感につながるのだと思います。決して今から逃げずに向きあい、そして楽しみましょう。たとえ高い目標に艱難辛苦していたとしても、「日々是好日」と毎日をありのままに受け入れ、その生活を楽しむ余裕と心構えが大切なのだろうな、と思うところです。